10話「名誉の為に」
エリオットとジェイスは、リーフウッド男爵の部屋の中へルイスの遺体を運び入れました。
部屋の壁や床、調度品等は、全てヒューバートン男爵の部屋で目にしたものと同じでした。
二人は、遺体を部屋の前に置いて逃げれば良かったと深く後悔しました。
不服そうな顔をしている男爵とすすり泣く夫人に、夫人を宥めているメイドの姿があり、ものすごく気まずい空間が広がっていたからです。
「こんなことになるなら、無理やりにでも次男のレスターを連れてくればよかった。
落馬して骨を折りさえしなければ、連れてきたというのに」
男爵はそう言ってため息をつきました。
エリオットはジェイスの二人は、ルイスの遺体を部屋の中央にあった大きなベルベッドの二人掛けのソファーに寝かせました。
するとその拍子に、ルイスの上着のどこからか、はらりと小さな紙の切れ端が落ちました。
エリオットは気づかれないようにそれを拾いました。
その紙の切れ端はどうやら誰かへ宛てた手紙のようで、文章が書かれていました。
エリオットは幼い頃にグレイシアに読み書きを教えてもらっていたものですから、素早くその紙の切れ端に書かれた文章全てに目を通し、内容を理解しました。
そして彼はさり気なくその紙の切れ端をルイスの上着の外ポケットの中に入れると、何事もなかったかのように姿勢を正しました。
それから、思わず両耳を塞ぎたくなってしまうようなけたたましい声が辺りに響きました。
「全く!!!本当にお前は最低だわ!!
お前が決闘をするなんて言い出さなければルイスは死ななかったのよ!!!
お前の妹も母親もここに来る途中でギャングに襲われて死ぬはずだったのに!!
なんで死に損なうのよ!!」
夫人はすっかり自暴自棄になり、周りなどお構いなしにルーシャスにそう怒鳴ったのです。
「やっぱり、そうかよ!!!あれも全部お前らの仕業だったのか!!」
ルーシャスは、すっかり開き直り乱心した夫人にそう告げられ、驚きと衝撃の余り軽く混乱しながらも、怒鳴り返しました。
二人はいがみ合い、今にも乱闘騒ぎに発展しそうな雰囲気でしたから夫人はメイドに、ルーシャスはジェイスに身動きを封じられました。
その甲斐あって、何も起きませんでした。
「ジェシカ。あんまり、余計なことを口走るな」
男爵はギロリと夫人を睨んで低い声でそう言いました。
「ところで、ルイスと似た顔をしたお前、名前は何と言う?」
男爵はそう言ってから苛立ちながら嗅ぎたばこを吸うと、エリオットの傍まで近寄り、ジロジロと彼を見つめました。
「彼はエリオット言います。ヒューバートン男爵家に仕える新しい執事です」
ジェイスがすかさず男爵にもっともらしくそう説明し、にこりと微笑みました。
「なるほどな。ヒューバートン男爵家が没落寸前という噂は本当のようだな。
使用人にさえそんなみすぼらしい服しか見繕えないとは」
男爵はエリオットの着ている薄い黄緑色のよれたシャツを一瞥すると、嘲るようにそう言いました。
エリオットは男爵の言葉の節々から強い悪意を感じ、すぐにここから出ていきたくなりました。
しかし、急に男爵から彼は思わず耳を疑うような、信じられないことを告げられました。
「では、エリオット。お前はルイスのふりをして舞踏会に出席するのだ」
これを聞いた夫人は思わず口をあんぐりと開けて驚きました。
よりによって、お互いに敵視し合っているはずのヒューバートン男爵家の使用人に、息子の代役を頼んだからです。
「信じられない!!何を言っているのですか!!」
夫人は目を見開き、慌ててそう叫びながら自分の旦那の顔を見つめました。
しかし男爵はそれを気にも留めない様子で、エリオットに低い声でこう言いました。
「そうするしかないだろう。それで、この件は一旦収めてやる。
舞踏会が終わったら、お前の家には必ず制裁を与えてやるから、そのつもりでいろ」
男爵の言葉を聞いた時、エリオットは心底ジェイスと一緒に、エリオットを追ってデッキまで向かったことを後悔しました。
とんでもない厄介ごとに巻き込まれたと思ったからです。
ルーシャスはちらりと明らかに馬鹿にしたような表情でエリオットを見ましたから、エリオットは彼に向かって、声に出さずにクソ野郎と口を動かしました。
「確かに‥ルイスとこの使用人の顔はそっくりですが‥‥
流石にそれは無理があるのではないでしょうか?人質にはなりそうですが」
夫人はエリオットの顔を目にした後に男爵にそう言うと、大変意地の悪そうな笑みを浮かべました。
しかし、彼女の発言に怯えたのはエリオットではなく、ルーシャスとジェイスでした。
彼らは夫人の言葉を聞くや否や、なんとエリオットを残して部屋を勢いよく去ってしまいました。
夫人は思わず二人を追いかけようとしましたが、メイドがそれを止めました。
何故ならエリオットが拳銃を夫人に向かって構えていたからです。
「ヒューバートン男爵家には、このクルーズが終わるまでは手を出さないと約束してください。
それなら男爵、貴方の言う通りにします」
エリオットはそう言って凄みました。
彼は別にヒューバートン男爵家のことなど本当にどうでも良かったのですが、舞踏会にリリィのふりをして参加するグレイシアのことを守りたかったのです。
「でも‥‥おかしいわよ!!!こんなの!!」
夫人はまだ乱心しているようでした。
エリオットは心の中で去っていったルーシャスとジェイスに恨み節を言いました。
そして納得のいかない夫人に向かって一か八か試すようなことを言いました。
「茶会で決闘をするとあのクソルーシャス様がそう宣言された以上、どんな理由であれ舞踏会にルイス様が来なければ周りは一体どう思うでしょうか?」
夫人はエリオットの言葉を聞いて思わず絶句しました。
「ほお、貴様は弁がたつのだな」
男爵は思わず唸りを上げてそう言いました。
そして部屋の隅に深刻そうな表情を浮かべて佇んでいるメイドにこう命じました。
「アイラ、こいつを今すぐに着替えさせろ」
そして物憂げな顔をしている夫人に向かって舌打ちをすると、面倒くさそうにこう言いました。
「安心しろ。ルイスはこのクルーズの数日後に落馬して死んだことにすればよいのだ。
こいつにはどんな振る舞いをさせても構わん」
夫人は男爵のことが本当に理解できないと思いました。
夫人は、男爵にとって子供達は所詮、ただの後継ぎとしての駒にすぎないのだと思いました。
そしてそれ以上に夫人にとって辛い事実がありました。
それは男爵は、自分との間に産まれたルイスでなく、愛人との間に生まれたレスターのことを本当にルイスと同等、いやそれ以上に我が子の様に思っているということです。
「本当にどうかしているわ」
夫人は口を震わせながらそう言いました。
アイラは不思議そうにエリオットの姿をじっと見つめてから、ソファーに横たわるルイスの亡骸へ目をやりました。
確かに、エリオットはミルクティー色の髪に紺色の瞳をしており、顔立ちもルイスにそっくりだったものですから、何故ここまで似ている人間が存在するのだろうとアイラは鳥肌が立つほど不気味に思いました。
そして、ルイスの遺体を茫然と見つめていると、ふと彼女はルイスのコートの上着の外ポケットに微かに煤がついているのに気づきました。
それはエリオットが先程そこに例の”紙の切れ端”をしまってついた汚れでした。
そして彼女はそのポケットに紙の切れ端が入っていることに気づきました。
彼女はその紙の切れ端を開いて中の文章へ目をやると、驚いて思わず「え??」と動揺した声を発しました。
そして彼女はすぐさまそれをポケットに戻しましたが、今度はルイスの上着の内ポケットをまさぐりました。
なんとその中に、封筒が入っていることに気づきました。
アイラはその封筒を取ると、そそくさと折りたたんで、バレないように自分の服のカフスにこっそりとしまいました。
彼女は一部始終を誰かに見られていないかキョロキョロと見回しました。
それから彼女は何食わぬ顔でエリオットに声を掛け、リビングを抜けた奥の部屋のクローゼットまでルイスの遺体を運び、そこへ隠すように命じました。
それと言うのも、来客がもしこの部屋に訪れるとなった際、ルイスの亡骸を直接目の当たりにしてしまうからです。
それはどうしても避けたいことでした。
エリオットは大人しくルイスの遺体を運び、クローゼットの中へ押し込みました。
ですがその時アイラは、エリオットの自分へ向けられた視線に気づかなかったのでしょう。
エリオットが無事にクローゼットにルイスの遺体を押し入れたのを見届けた後、彼女は決して主人が居る前では見せないような、とても恐ろしい表情を浮かべていました。
彼女は右の口角を奇妙に吊り上げ、目を爛々とさせた表情でクローゼットの中を食い入るように見つめていたのです。
エリオットはそんな気味の悪い彼女の表情をしっかりと目にしてしまい、良くないものを見てしまったと思いましたが、特に何も反応せずに見て見ぬふりをしました。
アイラはその後、その部屋のクローゼットの傍の大きな姿見の前にエリオットを立たせると、着替えさせ始めました。
エリオットは自分で着替えたかったのですが、圧倒的な華やかさを放つ質の高い生地で作られた衣装を目の当たりにして、さすがの彼も言葉を失いました。
なんだか予期せぬ出来事に頭がついて行かず、されるがまま着替えと髪のセットを終えていました。
彼は鏡に映る、まるで別人のような自分の姿を目にした時、胸騒ぎがしました。
何せ自分は本来、この船で労働をするために来たのです。
それなのに労働とは一切無縁の存在であり、今まで羨望や嫉妬の眼差しを向けていたはずの貴族の一員として、いつの間にか上流階級のみが集まる社交場にこれから行くことになっているのです。
彼は戸惑いの感情を押さえつけるのに必死でした。
何か自分の想像をはるかに超えるような壮大なことに、巻き込まれているような気がしたからです。
* * *
グレイシアが再びローラと一緒にヒューバートン男爵の部屋に戻ると、そこには半裸のルーシャスとジェイスの姿がありました。
ジェイスは痛がるルーシャスの腕に丁寧に包帯を巻いていました。
既にリリィはメアリーに連れられて部屋のベッドで寝ているようでした。
グレイシアは辺りを見回してから、真っ先に作業中のジェイスにこう尋ねました。
「エリオットはどこにいるんですか?貴方と一緒にルーシャス様を追いかけて行ったと思うのですが」
彼女の言葉を耳にしたとたん、ジェイスの手がピタッと止まりました。
「本当にすみません。
彼は辻褄合わせのために、ヒューバートン男爵家に仕える執事ということにしました。
そうしましたら・・・大変お伝えしづらいのですが、彼はリーフウッド男爵家に人質として捕らえられてしまいました」
ジェイスは申し訳なさそうにそう言いました。
それから、止血の為とは思えない程強く、ルーシャスの腕に包帯を巻きつけました。
ルーシャスは痛みの余り叫び声を上げていましたが、グレイシアは冷や水をいきなり掛けられたようなショックの余り、息の根が止まりそうになっていました。
「どうしてそんなことに」
思わず彼女は珍しく動揺の色を見せ、ジェイスに聞き返しました。
するとジェイスではなく、傍にいたルーシャスが口を開きました。
「俺がデッキに着いた時、ルイスはデッキの中央で俺を待っていたんだ。
アイツ、俺が近寄るや否や自分の頭に銃を突き付けて、撃って死んだんだよ。
マジで信じられない」
彼は酷く動揺した様子でそう言いました。
「俺は殺してなんかない。頼むよ、信じてくれ」
ルーシャスはグレイシアの両肩を掴み、そう言いました。
グレイシアは何故エリオットだけが人質に取られているのか知りたいだけだったのですが、仕方なくルーシャスにこう聞き返しました。
「ルイスが自らを撃って自殺したというのなら、その一部始終を目撃した人は貴方の他に誰かいますか?
その人の証言があれば信じられますが」
グレイシアは鋭い声で半裸のルーシャスにそう言いました。
「分かんねえよ!!!そんなの…でも俺以外居ないと思う」
彼は酷く動揺した様子でそう言いました。
グレイシアは彼に何か言ってやりたかったのですが、彼の瞳は恐怖で怯えているようでした。
それに気づいた彼女は、自分の感情をそのままぶつけてしまわないように、一呼吸おいてからこう言いました。
「貴方の言うことを信じます」
グレイシアはルーシャスの目をしっかりと見てこう言いました。
彼女はその場に居合わせた訳ではありませんし、今の自分にはルーシャスの言葉を信じるくらいしか出来ることが無いからです。
ジェイスは気まずそうな表情でルーシャスに声をかけ、彼に慣れた手つきで新しい上着を着せました。
すると部屋の扉が「バン!!」と勢いよく開き、ヒューバートン男爵と夫人が帰ってきました。
「全く・・・・!!リリィはどこへ消えたの?」
夫人は強い憤りを感じている様子で、狼狽えながらそう言いました。
男爵はすぐにルーシャスが部屋にいることに気づき、思い通りにならないことへの不満や怒り全てを、ぶつけるように彼に怒鳴りました。
もはやそれは八つ当たりのようでした。
「貴様、一応聞くが決闘はどうなった。そして、私の剣を早く返せ!!!」
男爵からそう怒鳴られて、ルーシャスは蛇に睨まれた蛙のように縮こまり、しどろもどろになりながらも、グレイシアに話した一部始終を男爵と夫人に話しました。
そしてルーシャスは長剣を男爵に恐る恐る返すと、その場を立ち去ろうとしました。
しかし、男爵はガチっとルーシャスの右肩を掴むと、彼にどすの利いた声でこう言いました。
「私が何故怒っているか、分かるか?
お前は全く周りが見えていないからだ。
あの茶会にはわが国だけではなく、他国から来たジルバラ伯爵やそのご息女も居たのだぞ。
恥晒しのお前なんかにこの家を任せられるわけがない」
男爵はそう言うと、装飾の施された剣の鞘から研ぎ澄まされた剣を取り出し、ルーシャスに向かって構え、なんとその鋭利な穂先を彼の喉元に突きつけました。
男爵の目には憎しみが込められており、ルーシャスは実の父親を失望させてしまったという事実に、深い悲しみを覚えました。
「…お父様、申し訳ありません。俺は‥‥‥‥俺はただ」
彼は震える声で何かを言いかけましたが、唇を強く噛み締めて黙りました。
ルーシャスは一気に深刻な状況に立たされ、頭が真っ白になりました。
「周りが見えていない、そう貴方はおっしゃいましたね」
その時、横から思いがけない声が聞こえて、ルーシャスは信じられず、瞬きをしました。
「お言葉ですが、私は先ほどリリィ様と出会い、話をしました。
彼女は今、奥の部屋で眠っていますよ。
リリィ様はこの間の舞踏会で、ルイスというリーフウッド男爵の息子のせいで酷い怪我をしたことは貴方方もご存じかと思います。
彼女は今日の舞踏会でも彼から何かされるのではないかと、怯えるあまり熱を出したんです」
ルーシャスは淡々と、しっかりとした口調でそう話す声の主が、なんとグレイシアであることに開いた口が塞がりませんでした。
「この舞踏会に来る前に、奥様とローラ様がギャングの襲撃に会いましたよね。
それもルーシャス様は、リーフウッド男爵家が仕組んだことだと考えていました」
グレイシアは再びそう言うと男爵の方をしっかりと見つめました。
しかし、男爵は彼女を無視してルーシャスの喉元に剣の先を突きつけたままでした。
「ルーシャス様がルイスに決闘を挑んだのは、他でもない自分の家族を、そして大切な妹のリリィ様をリーフウッド男爵家から守るためです」
グレイシアは男爵の無反応に動じず、しっかりとした口調で話し続けました。
「ロード・ヒューバートン。
貴方はちゃんと子供である彼らの話に耳を傾けましたか?
彼らの気持ちを理解しようと思いましたか?
体裁のことばかり考えて、一番身近な周りを見ていないのは貴方の方です!」
グレイシアがそう言い終わった時、男爵は顔を真っ赤にして怒りを露わにしていました。
恐ろしい形相で男爵はこう叫びました。
「貴様!!!誰に向かって口を聞いている?」
彼はルーシャスに向けていた剣を一気に床に放ると、凄い速さでグレイシアに彼女に拳を振り上げました。
男爵の鉄拳により、頬をえぐるような鈍い音が辺りに響き渡りました。
しかし、男爵が実際に殴ったのはグレイシアではなく、ルーシャスでした。
なんと彼はグレイシアの前に立ちはだかり、彼女を庇ったのです。
ルーシャスは殴られた衝撃で勢いよく血を吐きました。
それでも男爵に向かって、こう叫びました。
「こいつを殴るなら俺を殴れ!!
リリィが舞踏会に出られなくなってもいいのか!!」
ルーシャスは鼻から血を流し、頬は痛々しく腫れていましたが、それでもグレイシアの前に立ちはだかり、力の限りそう叫びました。
男爵は怒り狂った顔でもう一度ルーシャスを殴ろうとしましたが、その手が急に止まりました。
夫人がこう叫んだからです。
「もう…もうやめて!!!!この娘の‥‥グレイシアの言う通りよ」
夫人は目から一筋の涙を流しました。
男爵は夫人のその言葉に思わず耳を疑いました。
男爵にとって彼女は唯一愛した女性であり、かつて戦争で酷い怪我を負った時も、政策で失敗して借金をした時も、自分を献身的に支え励ましてくれたのです。
男爵は、そんな夫人の涙を久しぶりに目にして、やっと我に返りました。
「私は先に行く」
男爵は短くそう言って勢いよく部屋を出ていきました。
グレイシアはその様子を茫然とした顔で見ていると、彼女の元に夫人が近寄って来ました。
そして、グレイシアにワインレッド色の洒落た手紙を渡してきました。
「これが舞踏会の招待状よ。さあ、いよいよ始まるわ。
メアリーから舞踏会の作法について諸々聞いているわよね?」
夫人は咳払いをした後、さも当たり前のようにそう聞いてきましたが、グレイシアは全く彼女から教わっていなかったのでこう言いました。
「いえ‥実は教えてもらってはいないです。リリィ様を探しに行っていたものですから」
夫人は思わずひっくり返りそうになり、すぐさま奥の部屋へずしずしと歩いて行きました。
それから数分後、ローラを連れて夫人は戻って来ました。
メアリーはどうやら舞踏会の間は、奥の部屋でリリィの看病をすることにしたようでした。
こうして夫人、ルーシャス、ジェイス、ローラ、そしてグレイシアの5人はひと騒動終えた後でしたが、いよいよ舞踏会の会場へと向かうため、遂に部屋を出て長い廊下を歩き始めました。
廊下には先ほど通った時からは考えられない程、沢山の人がいました。
皆、思いきりめかし込んで、舞踏会の会場へと向かっているようでした。
夫人は、カツカツと早歩きをしながら、目線は前を向いていましたが、自分の隣を歩くグレイシアに向かってこう言いました。
「最初に踊るのは、ジルフォード侯爵の息子、ダニエルよ。
彼は‥昔と変わらず口数が少ないし話すと言えば、狩猟の話や父親のことだから、とにかく褒めちぎりなさい。
父親と違って芸術的な感性に乏しいから話を振る内容には気を付けて頂戴。
舞踏会の後の晩餐会で、彼と話が出来れば上出来よ。まあ‥ダニエルは社交の場があまり」
夫人は途中で人とぶつかった為、一度話すのを止めましたが、時間の無駄とも思えるようなアドバイスをするため、再び話し始めました。
「その次に踊るリバーウッド伯爵家の次男のモーガンは・・・あの浮気男の遺伝子を継いでいるから、かなり女癖が悪いの。
でも詩の朗読や笛を吹くのが上手い芸術家タイプだし、おまけに話し上手だからモテるし、私は嫌いじゃないわ。
まあ‥あの家とは領地と諸々の事情で、最近関係が凄く悪いから何か聞かれても微笑むだけにしといて。
ああそうそう、この間のサロンで聞いた長女のマーガレットのピアノは本当に素晴らしかったのよ。下手すぎて」
夫人は、話途中に足元に何かあったのかよろけましたが、懲りずにまた話し始めました。
「最後に踊る、ウォートン子爵の息子のモリ―は嫌味な奴だけど、妙に繊細な所があるから厄介よ。
もう下手に何も言わないほうが良いかもしれないわ。
ああそうだった、ウォートン子爵夫人の作ったスコーンを食べた時、本当に尊敬しちゃったのよ。
あれを人に出す勇気にね。まず過ぎ」
夫人がそう言いかけたときジェイスがこう言いました。
「奥様、側にいますよ」
ジェイスがそう言って、目で合図しました。
夫人の側には、ウォートン子爵家一同が丁度おりましたから、凄く気まずい空気が流れました。
グレイシアはただ人で混雑した廊下を、夫人の皮肉に耳を傾けつつ、足元に注意しながら歩き続けました。
次第に大きな人だかりの渦の中に入ったようで、彼女は立ち止まりました。
どうやら舞踏会の会場のエントランスに到着したようでした。
会場へは、ジルフォード侯爵の手下に招待状を見せた後、絨毯の敷かれた長い階段を登った先にある出入り口から入るようでした。
エントランスは思わず目を見張るような、大きな聖堂のような見た目をしておりました。
床には沈み込む程ふかふかで、高級そうな赤い絨毯が敷かれ、天井には大きなシャンデリアが輝き、辺りには鮮やかな美しい花々が活けられた花瓶や美しい彫刻の数々が飾られていました。
グレイシアは目の前に広がる、豪華絢爛な空間に思わず圧倒され、今自分が見ている光景は夢なのか現実なのか区別できなくなりました。
どこもかしこも着飾った夫人や紳士で、自分と同い年か少し年上の少女や少年が年齢にそぐわないほどに豪華な美しい衣装をまとい盛大にめかし込んでいました。
談笑する声や叱咤する声など色んな声が混ざり、辺りは騒がしさを極めていました。
「当然だけど、リーフウッド男爵家には絶対に近づかないで。
死にたいならいいけど」
夫人は最後にそう言ってグレイシアに忠告すると、まるで今まで何も話していなかったかのように背筋を伸ばし、すました顔で黙りました。
エントランスには招待状を確認する受付係の若い手下が一人居て、彼だけは仮面を着けずに整った顔立ちに髪をまとめてカチッとした燕尾服を着ていました。
勿論、彼以外にも、警備のために巡回しているあの道化師の格好をした手下が数名その場をうろうろしていました。
受付の彼に招待状を見せると、代わりに小さな青い宝石の散りばめられた上品な金の鎖のブレスレットを受け取ることが出来ました。
若い受付の手下は、招待客一人一人に、招待客の証であるそのブレスレッドをつけて必ず入退場するようにと伝えていました。
しかもなんとそのブレスレットは、ジルフォード卿からの招待客への記念品として贈られ、同行する使用人にも気前よく配られたのです。
グレイシアはエリオットの安否のことで頭がいっぱいでしたが、複雑な表情で手首に繊細で上質な輝きを放つ、そのブレスレットを手首につけると、いつの間にか華やかな会場の中へと足を踏み入れていました。




