リスタート
会計を済ませている間、佳那は黙って亘の後ろに立っていた。
“良かった!これからは、安心して逢えますね”なんて言葉でも出てきたらどうしようかと考えていた亘だったが、そんな心配を他所に、佳那は他人行儀に「ありがとうございました」と小声で言っただけで、それからまた無言のままだった。
店を出ると、外はまだまだ暑さを残したままで、店内の冷えすぎていた空気から一気に解放されたようだった。その暑さを心地よく感じながら左腕の時計を確認すると、まだ16時を少し過ぎただけだった。果てしなく長く感じられた時間だったのに……たったの1時間だったのか。そんな事を考える亘の視線が、携帯で話をする由美子の姿を捉えた。
電話の邪魔をしないように、しかし誰と何を話しているのかも確かめたい気持ちもあり、ゆっくり由美子に近付いていく。
佳那は自分の車のある方へと静かに離れた。
亘と由美子の様子を眺めて、離れた場所から由美子が電話を終えるのを待っていた。
微かに聞こえてきた、夫婦の会話……
「ヒロトよ、ヒロト。ヒロトまで今日夕飯いらないだって、ったくもう、何なのよ、2人とも」
「マジかよ。何だよヒロト、アイツどーすんだって?」
「ーーーーーー」
「ーーー」
後半は殆ど聞き取る事もできなかったが、会話しながら佳那の存在に気付いた由美子に向けて、また佳那は深々と頭を下げた。
暫く下げていた頭を上げた時には、すでに由美子は車に乗り込んでいた。佳那が頭を上げるのを車の外で待っていた亘は、胸元で小さく手を振りながら軽く頷くような仕草を見せて車に乗り込んだ。
「どう、するか、夕飯」
2人きりの夕飯が確定した事実に、由美子も亘も戸惑っていた。
駐車場から発進出来ないまま、これからの時間をどうしたらいいかと考えていた亘は、忘れていた左腕の痒みがぶり返し、草むしりの時に刺された場所を無心で掻いてしまっていた。
「何?痒いの?」
「あ?あぁ、草むしりん時やられた。かいー」
由美子は自分のバッグをあさりだすと、携帯用の小さい痒み止めの塗り薬を取り出し亘に渡す。
「こんなん持ち歩いてんの?」
「何だってある」
「だーから、そんなにバッグでかいのか。たかだか喫茶店に来るのにもそんなでかいの持って……」
「おかげでチョットは助かったでしょ?」
「まぁ、そだな。ありがと」
「はぁ。ねぇ、どーすんの?帰る?」
「んー、ねぇ、由美子?」
「ナニ?」
「本当に、ごめん。ごめんなんかじゃ済まされないはずなんだけど、俺、もう、逢わないよ。彼女、杉山さんとは、もう、逢わない。約束する。信じて貰えるかどうか分かんないけど、逢わないから、また俺と……イチからやり直してくれないかな?いや、マイナスからか」
「何でよ!?こんなに良い話を、自分から断るの?……何でよ?何が、なにか……不満でも……」
由美子の目には今にも零れそうな涙が溢れ、これ以上言葉を発したら、流れ落ちてきそうで、何も言えなくなっていた。
亘はそんな由美子の手を握り、由美子に向き合い自分の気持ちを打ち明ける。
「今まで、家族は大事にしてきたつもりだよ?何よりも大事だと思ってたし、今でもそう思う。でも、今回の事で、色々考えさせられたんだ。夫婦の事とか、改めて。家族とか、夫婦とか、そんな事ばっかり考えて、由美子の事を、考えてなかった……。俺は、また由美子とやり直したい。何て言うか、家族とかじゃないんだよ。俺には由美子が……」
亘が話を終える前に、由美子の目からは大粒の涙が零れ落ち、溢れた涙と共に今まで堪えていた気持ちが一気にが漏れ出した。
「バカじゃないのバカじゃないのバカじゃないの!何よ今更!私、私、ずっと、ずっと……怖かった……!!怖かったんだからね!バカバカバカバカ!ばかに付ける薬なんか持ってないんだからねっ」
亘に握られていた手をほどくと、今度は由美子が亘の手を、力一杯握りしめた。それが、由美子からの返事であると確信し、更に由美子に近付いて亘は囁いた。
「ばかに付ける薬なら、ここにある……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に構う事なく、亘は唇を重ねた。
「何してんのよっ!こんな所でっ!」
あまりにも予期しない行動に動揺して由美子は思い切り顔を引き離す。
「こんな所じゃなきゃ、いい、かな?」
「バッカじゃないの!本当に。本物のバカでしょ?」
「だから、ばかに付ける薬はここに……」
と言いながら再び顔を近付けようとする亘に呆れ果てながらも、嫌悪感はなく、不覚にも笑みがこぼれる由美子。
「本当にバカね。大ばかよ!バカバカバカ!!」
「ねぇ、言い過ぎじゃない?……ん?あれ?」
「……何よ?」
「こんな所じゃなくて、ちょっと、アレだな。大ばかだから、薬、いっぱい付けてもらわないと治んないし」
「薬なんか自分で調達してよ。仕事でしょ?ばかね」
「あぁ。そーだな。じゃ、この薬、何処に運ぼうかな……」
亘は再び由美子の手を取り、車を発進させたーーー。




