贖罪または打算
亘は、まるで壁の一部にでもなったかのように、言われた通りに黙ったまま2人の話の行方を見守るしかなかった。
「わたしは、それ以上は何も望みません。もう二度と、一緒になりたいなんて言いません。だから……」
「だから、体だけ寄越せ、ってこと……」
妻の沈黙に怯えつつ、亘は佳那の発言を不思議に思っていた。全て、本心ではないように感じられた。何故だか、佳那が働く施設での老人とのやり取りが頭に浮かぶ。相手の訴えを正面から受け止めているようでいて、その実違う方へと思考を転換させていく……それはまるで、転んだ子供に“痛いの痛いの飛んでいけ”と、意識を痛みから遠ざける母親のようで、しかしそれが、此処でどんな意味を持つのか、亘には理解できなかった。
佳那の提案は、叶うとしたらこれ以上嬉しい事はない。男として必要とされているのだ。妻公認となれば、これは男の憧れのような状況と言ってもいいはずだ。それなのに、心から喜べない。その提案を由美子が却下してくれないだろうか、とさえ思う。
それが一体何故なのかは分からないまま……
溶けた氷で薄くなったコーヒーを飲みながら由美子は考えていた。
そんな事、許されるはずかない。世間的にも許していいような事ではない。なのに、それを許す事がまるで自分の贖罪であるかのようで、佳那の提案を簡単に退ける事が出来ずにいた。
この先、もしかしたら佳那が本気で亘を求めてくるかも知れない不安はありつつも、不思議と怒りは薄まっていた。この女なら大丈夫かも知れない……何の根拠もない。ただ、普通すぎる女だった。年は由美子の方が上でも、負けているとは感じられない。
この提案を採用しても自分に損はない。不安に怯えることもない。
亘が、自分と子供達を捨てて他の女を選び出ていくーーー慰謝料と養育費を貰った所で、これからの生活の保証は何もない。今更働きに出るのも無理があり、実家からの小遣いだって何時まで続くか分からない。子供達が自立してしまったら、自分には何も残らない。残らないどころか生活がままならなくなる。
そんな汚い計算をしている自分に、亘を責める資格もないのかも知れない。自分の醜態を晒す前に、物分かりの良い妻を演じておけばいいのだ。
すっかり薄くなったコーヒーを飲み干し、由美子が告げる。
「いいわ。それで」
「本当ですか?」
「マジかよ!?」
亘と佳那の声が重なる。
「ふっ、だって、それがいいんでしょ?」
「いいんでしょ?って……いや、い、い、あ、いや、あー何て言うか……本気で言ってんの?」
「良いじゃないですか!それで、ねっ?」
ハッキリしない亘に佳那が笑顔を向けるが、亘には佳那の部屋で見る“愛おしい”笑顔ではなく、仕事中に見る微笑みのように見えて釈然としなかった。
殆ど飲まれていない佳那のコーヒーは、コーヒーと溶けた氷が透明から茶色のグラデーションを作り出している。それを今度は混ぜ合わせる事なくストローから一気に吸い込んでいく佳那。
本当にこれでいいのか?亘の中で、またこれからも佳那に会いに行きたいと思う気持ちが残っているのか自分自身分からなかった。
「もういいわ。今日は、これで」
由美子が話し合いの終了を告げた時、亘の携帯が振動した。由美子も佳那もそれに気付き亘に視線を向ける。これ以上やましい事などありはしなかったが、亘は恐る恐る携帯を取り出すと振動は止み、そこには愛莉からのメッセージが表示されていた。
“今日は友達と夕飯も食べてから帰るから、ママに夕飯はいらないって言っといて♡”
亘はそれをそのまま由美子に伝えると少し怒りぎみの反応で、
「まったく、そーゆー事はパパに言うんだから。パパなら小ごと言わないと思ってさ。ねぇ、遅くならないようにって、返信しといてよ」
そう言いながら携帯を取り出し、自分には連絡が無かった事を確かめた。
亘は、言われた通りに娘に返信を打っている間に、由美子は伝票が挟まれた小さなバインダーを亘に押し付け席を立った。
周りの声など全く聞こえていなかったのに、いつの間にか店内は満席で、煩いとまではいかないが客の声は確かに彼方此方から聞こえてきた事に今更ながら心配する由美子。泣きわめくどころか、大した大声にもなっていなかったはずだと自分に言い聞かせ、店の入り口へ進み出す。
亘に押し付けられた伝票を、佳那が自分の方へ引き寄せようとした時、その手の上に亘の手が乗せられ、伝票は戻された。
「いや、俺でしょ。どー考えても。……また、連絡するよ」
佳那は無言でゆっくり頷き、今度は何時もの愛おしい微笑みを見せながら伝票から手を離した。
由美子は先にひとりで店を出た。
……出た所で、今度は由美子の携帯が音を立てた。




