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――……友達。
見覚えのない男性の口から飛び出した言葉に、わしは耳を疑った。
「友達? この、やりにくいおっさんと?」
若者はわしの姿と、男性の姿を交互に見比べ、妙に楽しそうな顔で笑った。男性は恥ずかしそうに、自分の服についていた汚れを手で払う。が、べっとりと付着しているシミはとれそうになかった。
「昔、……もう本当に大昔なんですけどね。僕、子供のころは大ちゃんと仲良くしてもらってたんです。僕、要領が悪くて。それで、大ちゃんが庇ってくれてたというか……」
照れ臭そうに、鼻の頭を掻く男性。そこにある、大きなほくろ。
「……あ」
たれ目で、温和そうに見える顔。そして柔らかい話口調。
「――良照君」
わしは頭の中に浮かんだ名前を、そのまま口にした。
彼と出会ったのは小学生のころ。わしが、新聞配達をしていた時のことだった。同じく新聞配達をしていた彼は、『貧弱』という言葉をそのまま表現しているような少年だった。体力もなく、仕事は人一倍できない。雇ってもらえているのが奇跡なんじゃないかと思えるくらいに、彼は働けていなかった。そのせいもあって、大人からも仲間からもいじめられていた。
後で知った事実だが、彼は仕事ができないのを理由に、かなり安い賃金で働かされていたらしい。
それはある日のこと。仕事を終えたわしが日陰で休んでいると、ずぶ濡れになった彼が、濡れて波打っている新聞の束とともに帰ってきた。
「どうしたんだよ」
見かねたわしが尋ねると、彼は泣きそうな顔で答えた。
「――転んで、池に落ちたんだ。そのせいで、新聞もぐちゃぐちゃになっちゃった」
……嘘だな、と思った。彼の担当地区には池もなければ、湖も海もない。そしてその日は晴天で、雨が降る兆しもなかった。
いじめか、と思ったものの、面倒なので問いただすのをやめた。
なんとなく。そう、本当になんとなくだ。
これから大人にみっちり叱られるであろう彼に、わしは自分の食べかけのお菓子を差し出した。
「やるよ」
「え、でも……」
「いいよ。また買うから」
当時の子供にとって、お菓子というのはとても貴重なものだった。だがその日、わしはなぜか彼にそれを渡した。食べかけとはいえ、半分以上残っていたはずだ。
彼は大切そうにそれを両手で握りしめると、やはり泣きだしそうな顔で笑った。
「……ありがとう」
その日から、わしは彼とつるむようになった。運動についてはからっきしだった彼だが、絵を描くのはとてもうまかった。地面に木の枝で、わしの似顔絵を描いてもらったりした覚えがある。
「いつか、絵描きになりたいなあ」
絵を褒める度、彼はいつもそう言って鼻のほくろを掻いた。照れるとほくろを掻くのが、彼の癖らしかった。
しかしやがて、彼と会うことはなくなった。彼の両親が事故で死に、遠方の親戚に引き取られたのだと、風のうわさで聞いた。
「えーっと、ヨシテルくん?」
若者がそう言うと、良照君は目を見開いた。
「え、なんで僕の名前……」
「いや、おっさんが今、そう呟いたから。後ろで」
「今、後ろで……?」
若者の後ろを見ながら、首をかしげる彼。良照君にはわしの姿は見えていないし、声も聞こえていないはずだ。なのにこの若者ときたら、わしがここにいるのが当たり前のように振る舞う。わしは若者を睨んだが、彼は悪びれた様子もなく肩をすくめただけだった。
「ま、信じるも信じないもあんた次第だよ。――んで? おっさんに、なんか用?」
「あ、はあ……」
彼は遠慮がちに、若者を見た。
「あの、僕、子供のころはここら辺に住んでたんですけど、両親が死んで、引っ越しちゃって。でも、大人になってから地元に帰ってきたんです。あの、でも、仕事ができなくてクビにされちゃって。こんな感じになっちゃって」
良照君は自分の姿を見下ろすと、照れ臭そうに笑った。要領を得ない喋り方も相変わらずだと思ったが、苛ついたりすることはなかった。若者は「早く用件を言え」と急かすこともなく、良照君の話に耳を傾けている。
「それで、こんな感じになってしばらくしてから、大ちゃんを見つけたんです。すごくお金持ちになってて、すごいなあって思いました。でもなんていうか、距離を感じちゃって。僕がこっちに帰ってきたって、挨拶にも行けなかったんです。そうこうしてるうちに……」
「須藤さんが死んじゃったってわけ?」
若者が声を出すと、良照君は一瞬言葉を詰まらせてから、どこか自虐的な声を出した。
「大ちゃんが死んだって聞いてから、僕、大ちゃんの家に行ったんです。でもこんな恰好じゃ、大ちゃんの屋敷に入れてもらえなくて。そりゃそうですよね、はは……」
「――須藤さんの家に行った理由は? お金を恵んでほしかったとか?」
若者がわざとらしく、こちらに目をやりながら言う。
『わしがあんな浮浪者と、知り合いだと思うか?』
『……大方、『少しでもいいのでお金を恵んでください』とか、そんなところだろ』
――先ほどわしが言ったことを、いちいち覚えていたらしい。まったくもって、嫌味なガキだ。
わしと若者が睨み合っていることを知らない良照君は、ぶんぶんと音が鳴りそうなくらいに勢い良く首を振った。
「違う、そんなんじゃないんです、ただ……」
「ただ?」
「渡したいものがあるんです、大ちゃんに」
彼はそう言って、上着のポケットに手を入れた。




