第4話「偶然ではない再会」
私は大皿の上から、おにぎりを一つ手に取った。
淡い光をまとったおにぎりは、ほんのりと温かい。炊きたてのライシアの甘い香りも、変わらず漂っている。
私は狼の様子を窺った。
相変わらず、金色の瞳はこちらを鋭く見つめている。
「えっと……これ、食べてみない?」
できるだけ優しい声で話しかけながら、おにぎりをそっと差し出した。
「私が作ったんだ。とっても、おいしいよ?」
もちろん、狼が人間の言葉を理解できるかどうかは分からない。
それでも、少しでも安心してもらえるように、私はゆっくりと言葉を続けた。
「もしかしたら、少しは楽になるかもしれないから……」
そう言って、おにぎりを狼の口元へ近づけようとした。
けれど――。
「グルルル……」
「ひゃっ! ご、ごめんね!」
低い唸り声に、私は慌てて手を止めた。
やっぱり、警戒されている。
無理に食べさせようとしたら、余計に怖がらせてしまうかもしれない。
「うーん……どうしよう」
私は少し考えたあと、狼から距離を取って、その場にしゃがみ込んだ。
近くに生えていた笹のような葉を手に取り、【生活魔法】の【洗浄】を使ってきれいにする。
そして、手に持っていたおにぎりを笹の葉にのせ、地面にそっと置いた。
「ここに置いておくね。食べたくなったら、食べていいから」
そう告げてから、私はゆっくりと後ろへ下がった。
狼を刺激しないよう、十分な距離を保ちながら様子を窺う。
しばらくの間、狼は動かなかった。
金色の瞳で私を警戒しながら、時折地面に置かれたおにぎりへ視線を向けている。
やがて――。
すん、すん……。
狼の鼻先が、わずかに動いた。
炊きたてのライシアの香りが気になったのだろうか。
狼は何度か匂いを確かめるように鼻を動かすと、ゆっくりとおにぎりへ顔を近づけた。
そして――。
ぱくっ。
「あっ……!」
狼がおにぎりを口に含んだ。
大きな口に比べれば、私の作ったおにぎりはずいぶん小さい。それでも、狼は警戒するように一度こちらを見てから、ゆっくりと咀嚼し始めた。
もぐ、もぐ……。
やがて、ごくん、と喉が動く。
「……食べてくれた!」
私は思わず声を弾ませた。
その直後――。
ぽうっ……。
狼の身体を包み込むように、銀白色の光がふわりと広がった。
そして、まとわりついていた黒い霧が、ゆっくりと薄れ始めたのだった。
狼の身体を覆っていた黒い霧は、先ほどよりも薄くなっていた。
まだ完全に消えたわけではないけれど、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いている。
「……よかった。少しは楽になったかな?」
私はほっと胸を撫で下ろし、狼の様子を窺った。
狼は金色の瞳でじっと私を見つめていた。最初に出会ったときのような鋭い敵意は、ほんの少しだけ和らいでいるように感じられた。
私は、ふと手元に目を落とした。
お皿の上には、まだいくつかのおにぎりが残っている。
「そうだ! まだおにぎりが残ってるんだった」
私はお皿を持ち上げると、残っていたおにぎりをひとつ手に取った。
「これも食べる?」
そう言いながら、黒狼の前にそっと差し出してみる。黒狼は金色の瞳を細め、おにぎりの匂いを確かめるように鼻先を近づけた。やがて、警戒する様子もなく、ぱくりと口にくわえる。
「ふふっ。おいしい?」
もちろん、返事はない。
それでも、黒狼が差し出したおにぎりを食べてくれたことが、私は嬉しかった。
私は残りのおにぎりもひとつずつ差し出し、黒狼が食べ終えるのを待った。
最後のおにぎりを食べ終えた黒狼は、再び金色の瞳でじっと私を見つめていた。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。早く元気になってね!」
そう声をかけて、私はにっこりと微笑んだ。
本当は、もう少しそばにいてあげたい。
けれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。私には、まだやるべきことがあるのだから。
名残惜しさを感じながらも、私は狼に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
さらさらと流れる小川のせせらぎを背に、木々の間へと足を進める。
頭上では木漏れ日がきらきらと輝き、そよ風が頬を優しく撫でていった。
「さてと……次は、どんな食材が見つかるかな?」
私は気持ちを切り替え、周囲をきょろきょろと見回した。
この森には、まだ見たことのない植物や木の実がたくさんあるはずだ。
もしかしたら、元の世界では出会えなかった珍しい食材が見つかるかもしれない。
そう考えると、自然と胸が弾んだ。
「よーし! まだまだ探してみよう!」
私は新たな食材との出会いに期待を膨らませながら、緑豊かな森の奥へと歩き出した。
◇◇◇
黒狼さんと別れたあと、私は再び森の中で食材採取を続けていた。
木々の間を歩きながら、食べられそうな植物や木の実を探していく。見つけたものは、スキルで確認しながら籠の中へと入れていった。
まだまだ知らない食材がたくさんあるこの森は、料理好きの私にとって、まるで宝探しをしているような場所だった。
「よっ、こいしょ!」
私は掛け声とともに、地面からオニルを引き抜いた。土の中から現れたのは、玉ねぎによく似た丸い球根野菜だ。薄茶色の皮に覆われたそれを手に取り、表面についた土を軽く払う。
「うん、これもおいしそう!」
私は採れたてのオニルを籠に入れると、満足げに頷いた。
その後も森の中を歩きながら、食材になりそうな植物を探していく。
すると、木々の間から差し込む日差しの先に、赤い実をたくさんつけた植物が目に入った。
「あっ! あれは……!」
駆け寄ってみると、そこには真っ赤に熟した、トマトによく似た実がなっていた。
丸々とした実はつやつやと輝き、見るからにおいしそうだ。緑色の葉とのコントラストも鮮やかで、思わず頬が緩んでしまう。
「わあ、こんなにたくさんある!」
私はさっそく、スキルを発動した。
「【食材鑑定】!」
目の前に、トマリアの情報が表示された。
食用に適していることを確認すると、今度は【食材採取】を使い、熟した実を一つずつ収穫していった。
傷つけないように丁寧に採り、籠の中へそっと並べていく。
「これなら、サラダにも使えるし、煮込み料理に入れてもおいしそう!」
私は籠の中に並んだトマリアを眺め、満足げに頷いた。
新しい食材を手に入れられたことに喜びを感じながら、私は再び森の探索を始めた。
木々の間を抜け、草むらや木の根元に目を向けながら、何か食べられそうなものがないか探していく。
食材探しは、まるで宝探しみたいだ。
見慣れない植物を見つけるたびに、どんな味がするのだろう、どんな料理に使えるのだろうと想像が膨らんでいく。
「次は、どんな食材が見つかるかな?」
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
「――きゃあああっ!」
不意に、森の奥から甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「……えっ?」
私は思わず足を止めた。
今の声……子供?
気のせいかと思ったけれど、続けて助けを求める声が響いた。
「だ、誰か助けてぇっ!」
間違いない。子供がいる!
「大変っ!」
私は慌てて声のした方向へ駆け出した。
茂みをかき分け、木々の間を抜けていく。やがて視界が開けた先に、三人の子供たちの姿が見えた。
幼い子供たちは、必死に逃げていた。
そのすぐ後ろには――。
「ブオオオオオッ‼」
「ひっ……!」
森の奥から響き渡る、獣の恐ろしい咆哮。
思わず息を呑んだ私の目に飛び込んできたのは、信じられないほど巨大な猪だった。
地面を蹴り上げ、木々の間を突き進みながら、三人の子供たちを猛然と追いかけている。
太い脚に、盛り上がった肩。口元から突き出た鋭い牙は、木々の隙間から差し込む陽光を受けて、ぎらりと不気味に光っていた。
お、大きすぎない!?
普通の猪とは比べものにならない大きさだ。あんな巨体で突進されたら、目の前の木だって簡単になぎ倒されてしまいそう。
しかも、ものすごい速さだ。
このままじゃ、追いつかれる!
「リゼ! ルカ! 二人だけでも逃げろッ!」
先頭を走っていた男の子が、背後の二人を振り返って叫んだ。
その手には、太い木の棒が握られている。
男の子は足を止めると、木の棒を構え、迫り来る巨大な猪に立ち向かおうとした。
まさか……あの子、一人で食い止めるつもりなの!?
「やです……! お兄様を置いていくの、やです……!」
リゼと呼ばれた女の子が、涙を浮かべながら必死に叫ぶ。
「やだぁ、やだぁ! にーたまといっちょにいるのぉ!」
もう一人の幼い子も、泣きそうな声で兄に訴えていた。
二人とも、兄を置いて逃げるつもりなんてないのだ。
でも、このままじゃ三人とも危ない!
どうしよう……!
助けなきゃ!
私はぎゅっと拳を握りしめ、子供たちと巨大な猪を交互に見つめた。
このままじゃ、あの子たちが危ない!
どうしよう。私に戦う力なんてない。魔法だって、使い方をちゃんと理解しているわけじゃない。
それでも――。
あんな小さな子たちが危ない目に遭っているのに――。
「放っておけるなんてできないよッ!」
私は足元に転がっていた石を拾い上げた。
そして、猪の注意を引こうと、思いきり投げつける。
「こっちだよ! こっち!」
石は猪の身体に当たることなく、すぐそばの地面に落ちた。
けれど、音に気づいた猪が、ぴたりと動きを止めた。
「ブオッ?」
ゆっくりと、巨大な頭がこちらを向く。
――あ。
目が合った。
次の瞬間、猪の目つきが鋭くなった。
「ブオオオオオッ‼」
「ひゃあっ!?」
猪は子供たちを追うのをやめ、今度は私に向かって突進してきた。
えっ、ちょっと待って!?
た、確かにこっちに注意を引きつけようとは思ったけど……!
まさか、本当に向かってくるなんて!
私は慌てて逃げようとしたものの、猪が迫ってくる速度は想像以上だった。
ドドドドドッ!
大型の猪が地面を蹴り、ものすごい勢いで突進してくる。逃げる間もなく、その巨体が目の前まで迫っていた。
しまった。完全に考えなしだった!
子供たちを助けるつもりが、今度は自分が危険な目に遭っている。
それでも、せめてあの子たちが逃げる時間だけは稼がなきゃ――!
「みんな、早く逃げ――」
子供たちに叫びながら、私は勢いよく駆け出した。
その瞬間、足元に張り出した木の根に、つま先が引っかかった。
「えっ――!?」
身体が前につんのめり、私は勢いよく地面に転がった。
「ぐぇっ!」
ドサッ!
痛みをこらえて顔を上げた、そのとき――。
「ブオオオオオッ‼」
顔を上げると、巨大な猪が土煙を巻き上げながら突進してくる。鋭い牙が太陽の光を反射し、その巨体はもう、ほんの数歩先にまで迫っていた。
「う、嘘……っ!」
逃げなきゃ!
そう思っても、身体がすぐには動かない。
猪の足音が、さらに大きくなる。
――間に合わないっ!
私は必死に立ち上がろうとしたけれど、猪はもう目の前まで迫っている。
鋭い牙が、すぐそこに見えた。
もう、だめ――!
大猪の牙が、すぐ目の前まで迫った。逃げることも、身をかわすこともできない。
そう思った、その瞬間――。
「ヴォオオオオオオンッ‼」
森の奥から、力強い獣の咆哮が響き渡った。
その声が耳に届いた直後、頭上で青白い閃光が弾けた。
バリバリバリッ、ドォオオオオオンッ‼
凄まじい雷鳴とともに、一本の稲妻が空から降り注いだ。
狙いすましたかのように、その稲妻は大猪を直撃した。
「きゃっ!」
轟音が森中に響き、地面から土煙が巻き上がる。焦げた土の匂いが鼻をつき、周囲の木々から木の葉がぱらぱらと降り注いだ。
あまりの出来事に、私はその場に立ち尽くした。
やがて雷鳴が遠のき、土煙がゆっくりと晴れていく。
「……えっ?」
目の前に広がっていた光景に、私は息を呑んだ。
あれほどの勢いで突進してきていた大猪が、地面に倒れ伏していたのだ。
その巨体は動かず、すぐそばの地面には黒く焦げた跡が残っている。
落雷が直撃して、大猪は倒れたのだ。
けれど――。
どうして、あんな絶妙なタイミングで雷が落ちたの?
まるで、私が襲われる瞬間を狙ったかのように。
それに、さっき聞こえた獣の咆哮は……?
私は音が聞こえた方へ、ゆっくりと視線を向けた。
土煙の向こうに、黒い影が立っていた。
艶やかな黒い毛並み。堂々とした大きな体躯。そして、鋭い光を宿した金色の瞳。
「……うそ……あのときの!?」
間違いない。
先ほど、清流のそばで出会ったあの黒狼だった。
黒狼は私をかばうように前へ立ち、倒れた大猪を鋭い眼差しで見据えている。
その姿を見た瞬間、私は気づいた。
この黒狼は、ただ偶然ここに居合わせたのだろうか。
清流で別れたばかりなのに、どうして私が危機に陥った瞬間に現れたの?
そして、あの咆哮と落雷は、本当に偶然だったのだろうか。
いくつもの疑問が頭を巡る。
けれど、答えは何ひとつ分からない。
ただひとつ確かなのは――。
この黒狼が、私の命を救ってくれたということだった。
「……ありがとう」
小さく呟いた途端、黒狼の金色の瞳がこちらを向いた。
その瞳には、まるで私のことを確かめるような、不思議な光が宿っていた。
じっと見つめられ、私は思わず息を呑む。
……え? な、何だろう?
そう思った、次の瞬間――。
『愚か者め! 戦う力も持たぬ身で、無茶をしおって!』
「ひぇーッ! ご、ごめんなさいぃ……!」
突然の怒声に、私はびくりと肩を跳ねさせた。
あまりの迫力に、思わず首をすくめてしまう。
うぅ……っ。た、助けてもらったばかりなのに、怒られてしまった……。
しょんぼりと肩を落としかけた、そのとき。
……ん?
今、私……普通に返事をしたよね?
それに、目の前の狼さんも、何やら不思議そうにこちらを見つめている。
…………。
………………。
しばしの沈黙。
私はゆっくりと瞬きをした。
いや、待って。
今の声……誰の声?
私は目の前にいる黒い狼を、まじまじと見つめた。
黒々とした毛並みに、金色に輝く瞳。見た目はどう見ても、立派な狼だ。
なのに。
なのに、今……。
「お、狼がしゃべったぁぁぁっ!?」
思わず素っ頓狂な声が森に響き渡った。




