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第7話 ヌートリア

 泥にダイブした日の夜は、ふてくされて早めに寝た。

 海人の尻もち写真が、三人のグループに送られてしまい、菜美からは「泥んこ遊び楽しそー」というメッセージまで受け取った。翔はいつの間に撮っていたんだ。これでふてくされないほど、海人は人間ができていない。


 そして翌朝は、寝坊した。もうとっくにゴミ収集は終わっているだろう。掃除当番でなくてよかった。

 起き上がろうとしたが、身体がパキパキとなりそうなくらい固まっている。特に腰回りが重だるい。農業は腰に来るというが、その言葉の意味を実感している最中だ。

 起き上がれずにゴロゴロしていると、スマートフォンが着信を告げた。


翔:海人、生きてるか? 腰、いっちゃってないか?

海人:動けない

菜美:お疲れ。おばあちゃんのご飯持っていこうか?

海人:そこまでじゃないけど、全身が痛い


 こんな筋肉痛は、ここに来てから初めてだ。田んぼは、かなり難易度が高かった。もちろん中腰もだが、ぬかるみに足を取られながら歩くのも、身体のあちこちに負担をかけた。

 けれどよくよく考えてみると、海人は鍬を持って畑を耕したことがない。オクラは、すべて源がお膳立てしてくれて、海人はただポットから苗を移し替えただけだ。海人が一人で行ったのは、毎日の水やりくらい。


「あははっ」


 笑いがこみあげてきた。ちょっと土に触れただけで、農業をやった気になっていた。達成感に酔っていた。

 きっと源は気づいていただろうが、それでも海人のおままごとに付き合ってくれた。


 メッセージのやり取りは続いている。


翔:なるべく人間以外の手でできるようにしたいんだよなあ

菜美:あんたがサボりたいだけでしょう

翔:そうとも言う。田んぼに川掃除に消防団に、やること多すぎるんだよ。だからドローン使いたくて資格とった

菜美:農薬散布が楽そう

海人:へえ、すごい

翔:機体は高くて買えない。でもいつかほしい


 翔は平日の仕事をきちんとこなしたうえで、農業も手伝い、地域の活動もしている。能力と経験の違いを見せつけられた。

 相手は生まれたときから自然と田畑に囲まれて育っているのだから、勝ち目などあるはずもないが。


 このまま続けていいのか。海人にあきれているだろう源に教えを乞うのは、図々しいのではないだろうか。

 けれど、ここで引き下がったら何も残らない。それになにより――


「悔しい。負けるもんか」


 海人はわざと声に出した。

 この程度で、負けを認めたくない。へこたれてなんかいられない。えいやっと体に鞭を打って起き上がった。

 今日は、源のところへ行って、この先の畑をどうしていけばいいか相談して、しっかり教わろう。


 どうしてここまで意地になるのか、自分でも分からなかった。

 それでも、ここで諦めたくなかった。


 自転車に乗ると危険な気がして、海人は源の家に歩いて向かった。玄関で靴を履くのも一苦労だ。

 源が家にいるかどうかは確認していないが、畑か田んぼで作業していても、そのうち戻ってくる。いなければ、待てばいい。

 源の家に着くと、納屋の前で農機具を洗っている源が、海人を見て怪訝そうな顔をした。


「どうしたんじゃ。動きがおかしいぞ」

「昨日翔のところのヒエ取りに参加したら、筋肉痛です」

「そりゃ、しゃあねえな。で、なんじゃ?」

「今後、畑に何を植えるか、相談に乗ってください」


 源は作業の手を止めて、まじまじと海人を見ている。やはりそういう反応になるのか、という自分への失望を飲み込んで、言葉を尽くす。


「今度はちゃんと自分で耕して、野菜を育てたいです。冬に向けては、根菜やキャベツ、白菜、ホウレンソウがあるようですが、僕にもできそうなのはどれでしょうか」

「……まずはキャベツ。いまが種まきの時期じゃ。やる気があるなら、調べてみい」

「ありがとうございます! また相談に乗ってくれますか?」

「うむ」


 まずはやってみろと背中を押してくれる源に、少しだけ認められた気がして、笑みが浮かぶ。

 そのまま満足した気持ちで帰ろうとして、気づいた。


「犬? 源さんの犬ですか?」

「コロじゃ」


 納屋の奥、角に置かれた犬小屋がある。その前に大きく広げられた毛布の上で、少し毛の長い柴犬、といった感じの茶色の犬が、寝っ転がってこっちを見ている。

 源に名前を呼ばれて、寝っ転がったまま、ふわふわの尻尾を振っている。


「かわいい」

「触っても怒らんぞ」

「……次回にします」


 なでたい。なでたいのだが、なでるためにしゃがめる気がしない。仕方なく、空中でなでるように手を動かしてから、海人はそろりそろりと家に向かって歩き始めた。身体が重くて、まるで水の中を歩いているようだ。一歩一歩、水を押しのけるように進む。

 取り残された源が、「なんじゃあれは」と首をひねっていた。


 家に戻ると、玄関先に回覧板が置かれていた。ちょうど源の家に行っているあいだに中川が持ってきたようだ。

 内容は「用水路の藻の繁殖に伴う臨時藻引きの実施について」。家から一人参加、出られない場合はお金を払うように、と書かれている。共同作業は気が重いが、出るしかない。藤原が言っていた川掃除はこれのことだろう。海人は少し憂鬱な気分になりながら、参加に印をつけた。

 次の家のポストに入れなければならないが、隣の家が果てしなく遠く感じる。夕方涼しくなってから向かおう。



 夕方、だいぶ動けるようになった海人は、回覧板を回してから、オクラの様子を見に畑に出た。

 風が少し冷たくなっていて、田んぼの方が騒がしい気がした。

 そのとき、オクラの近くに茶色い影を見つけた。ぬぼーっとしたカピバラのような顔に、長い尻尾。


「……ヌートリア!」


 海人は痛みも忘れて、畑に向けて飛び出した。


「こらーっ! 僕のオクラを食べるなーーーーっ!!」


 突如現れた人間に驚いたヌートリアは、田んぼのほうへ逃げていく。ポテポテとお尻を左右に振る走り方は、緊張感のかけらもない。

 だが、あれは農家の敵、害獣だ。爪は鋭く、病気を運ぶこともある。


 ヌートリアがいた一番田んぼに近いところにあるオクラをじっくり見るがが、かじられたあとはない。

 自分の農業への甘さを痛感させられた直後にこれだ。もしヌートリアに食べられでもしたら、きっと打ちのめされて立ち直れなかった。身体の痛みと疲労感が、一気に戻ってくる。

 夕暮れのカラスの鳴き声が、今日はやけに近く感じられた。

 水路の向こうへ消えた茶色い背中が、一瞬だけ、水に流れ着いた何かのように見えた。


 翌日、海人は畑の隅に不自然なところがあることに気づいた。田んぼとの境で、雑草が茂っているところに何か茶色いものがある。近寄ってみると、その何かが動いた。


「またいたっ!」


 ヌートリアは田んぼに入って逃げていった。

 座っていたあたりを見ると、土地留めの板が外れ、田んぼ側から穴が掘られている。

 海人は、スコップで穴を埋めて、板をはめた。


海人:畑の端っこがヌートリアに掘られてた

菜美:巣を作られちゃったんじゃない?

海人:埋めたんだけど

翔:またやられるな


 翌日確認すると、翔の言うとおり、板の隙間からまた穴が掘られている。

 もっとしっかりとした対応をしようと、ネットで調べる。


「見つけた場合は埋め戻す。周りの草を刈る。金網やネットを設置する。か」


 野菜もないからいいだろうと、畑の端のほうの草を放置してしまっていた。柔らかい土に、隠れる場所。絶好の巣穴候補だ。

 草を刈って、巣穴を埋めよう。納屋から鎌とスコップを持ちだしてから、少し考え、鍬に変えた。

 まずは、草を抜く。畑の土は軟らかく、大きく育った雑草も、引っ張れば抜けるものが多い。抜けないものは、鍬で耕して、土をほぐす。スコップのほうが使いやすいが、練習あるのみ。海人は、不慣れな手つきで、なんとか土を掘り返す。筋肉痛も、動き始めはまだ痛みがあるが、しばらく動いていれば平気になる。

 畑の縁の雑草を抜き終わるころには、穴を見つけてから、一時間ほど経っていた。


「土を固めて、これでよし」


 巣穴のあったところも掘り返して固めた。中にヌートリアがいたらどうしようとと思いながら、おそるおそる作業したが、すでに逃げ出したあとだったようだ。

 土留めの板をはめれば完成。隙間には、納屋の中にあった木の杭をとりあえずあてがった。


 源の家を訪ねると、畑で作業をしていた。


「どうした」

「畑の隅に、ヌートリアが巣を作ってしまって。草抜きと埋め戻しはしました」

「それでえかろう」

「土留めの隙間があって、そこを掘られたんです」


 それを聞くと、源は作業の手を止めて納屋へ向かった。


「もっていけ」


 源は納屋の奥にあったトタンの小さな板を取り出し、海人にポイと渡した。


「それで様子を見ろ」

「ありがとうございます」


 さっそく帰って、また掘られないように隙間を埋めよう。

 けれど、その前にやることがある。


「コロ、こんにちは。これからよろしくね」


 納屋の奥まで近寄っていっても警戒もせず、コロは寝転んだままだ。

 昨日触れなかった分まで、海人はふわふわの感触を楽しんだ。


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