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第6話 田んぼの歩き方

 菜美は完全無農薬にこだわるのをやめた。SNSには、トマトに虫が来てしまったので、農薬を使いました、と事実を書いている。

 そして虫よけに効くと言われるマリーゴールドを植え、その写真には「効果があるかな?」とキャプションをつけていた。転んでもただは起きないところが、菜美らしいと思う。

 海人の家の玄関横には、ツルを伸ばす前の朝顔が植えられているプランターが置かれている。お礼だと言っていた。


「海人くん、だっけ? 今日はありがとうね」

「初心者なので、どれだけお手伝いできるか分かりませんが、よろしくお願いします」

「なんて礼儀正しい子なの!」


 今日は、翔の田んぼのヒエ取りの手伝いを頼まれた。曇りだが、朝から気温が上がっていて、すでに蒸し暑い。

 出迎えてくれた翔の母親に、ここでも子ども扱いされているが、嫌な感じはない。自分の子どもより下の世代は全てまとめて子どもと認識されている気がする。

 翔の家の手入れされた花壇には、百合と桔梗が咲いている。


 翔と父親はすでに田んぼに入ってヒエを取っていた。


「海人、まずは、そこの稲のないところで、歩く練習しろ」

「歩く練習?」

「うまく歩けず泥にダイブするぞ。スマートフォンや時計は持っていくなよ。稲を倒したらペナルティだからな」


 ただ稲のあいだを歩いて雑草を抜くだと思っていた海人の認識は甘かったのだ。

 おそるおそる水田に足を入れると、長靴の裏から、ぬるっとしたものを踏んだ感触が伝わってくる。水の下に、柔らかい地面が沈んでいる。踏むたびに、その境界があいまいになる。

 長靴は、今回に合わせて新調した。祖父のものを使っていたが、足にぴったりしたもののほうが、疲れないはずだ。


「難しい……」


 少しずつ慎重に歩くが、一歩進むごとに足が泥の中に沈む感覚がある。これはかなり歩きづらい。ぬかるみにはまった足を抜くときに上手くいかないと、バランスを崩してしまう。

 しばらく行ったり来たりして、少し歩き方にも慣れたところで、翔が草をもって近づいてきた。


「これがヒエ。根元に毛がない。ここ」

「……分かるような、分からないような」

「とりあえず、これ持っていって、同じだったら抜け」


 翔は、習うより慣れろ、というタイプらしい。やるしかない。

 海人の担当と指定された二列の稲のあいだをゆっくり進むが、しっかり近寄ってじっくり見ないと、稲なのかヒエなのか違いが分からない。中腰になって、手に持っているヒエと見比べる。


「これは……違うな。こっちは、ヒエだな。よし」


 抜いたヒエを片手に握って、少しずつ進む。前を見ると終わりが遠くてくじけそうになるので、ただ足元だけを見て歩く。


「ふう、腰が痛い」


 背中を後ろにそらせて、固まってしまった身体をほぐす。

 翔を見ると、ほんの少しだけ前かがみでゆっくりと歩き、立ち止まって水面に手を伸ばすと、また歩き始めた。迷いがない。しかも、三列くらい同時に見ている気がする。


「がんばろ」


 あそこまでなるには、どれだけかかるのか分からないが、まずはこの列を終わらせよう。


 そうやってずっと下を見ていれば当然のこと、田んぼを一往復するころには、腰が悲鳴を上げた。


「海人くん、休憩してくれ」

「ですが」


 海人が一往復する間に、翔は二往復半している。まったく成果が出せていない。


「君が来てくれたおかげで、翔がサボるのを阻止できたからね。それだけで十分」

「はあ」


 最初から海人は、戦力として当てになどされていなかった。

 その思いに同意するように、どこかでカラスが鳴いた。


 日陰に座って、出された冷たいお茶を飲む。肌が出ないように長袖を着ているので、滝のように汗が流れており、その汗を吸った服は絞れそうだ。


「ここにはもう慣れたかな?」

「……昼のセミにも、夜のカエルの大合唱にも、まだ慣れません。でも、楽しいです」

「ふふっ。翔がほめてたよ。すぐに尻尾丸めて帰ると思っていたのに、意外と根性があるって」

「会った初日に、どうせ続かないって言われました」


 百間川で会ったあの日を懐かしく思い出す。まだ一か月前だが、もう一か月も経っているともいえる。いろいろと濃い一か月だ。


「ここは、妻の実家なんだ。だから他の人よりは、君の気持ちが分かると思う。ほら、ここは関係が密だろう」

「この前、気づいたら源さんがうちの畑で作業していて、びっくりしました」

「そうそう。いきなり玄関開けて『おるかー?』ってのにも、最初はなかなか慣れなかったよ」


 ということは、源が来訪時に家のチャイムを押すのは、海人の距離感に配慮してくれているのだ。

 同じような戸惑いを持った者同士、話が弾む。


「海人、いつまでサボってんだー!」

「はいはい」

「君はおじいさんくらい自由でいていいと思うよ。無理せずにね」

「……ありがとうございます」


 まるで息子を心配するような、けれど温かい目で見られて、面映ゆい。

 そんなに無理しているように見えるだろうか。今度、海人がこの地区の人たちからどう見えているのか、翔に聞いてみよう。きっと翔なら、遠慮なく真実を教えてくれるだろう。


 田んぼに戻り、また稲の列にそって、足元を見ながら進んでいく。少しずつ慣れてきたのか、ヒエかもしれないものが遠目でも分かるようになってきた。


「これも。あれ? ヒエじゃなかった。毛がある」


 調子に乗って、あまり確かめずに抜いたところ、稲だった。

 周りを見回すと、だれも海人に注目していない。海人はそっと稲を埋め戻す。引き抜くときに根が切れた感触はしなかったから、きっと大丈夫。そう海人は自分を納得させた。


 それからは、慎重に確認している。また、ヒエに見えるものを見つけた。

 よく見ようと顔を近づけた、そのとき、足元を茶色の何かが通り過ぎた。


「うわあっ!」

「あー、海人、稲をつぶしたからペナルティ」

「な、なんか、なんかいた!」

「ん? ヒルでもいたか?」


 尻もちをついたまま立ち上がれない海人を起こすために、翔が近づいてきたが、海人はいま見たものが信じられず、混乱している。服もぬれてお尻が冷たいが、そんなことも気にならない。


「でっかい、ねずみが。でっかい」

「千葉の?」

「違う!」

「海人くん、ラグビーボールくらいの大きさの、茶色いねずみかな? だったら、ヌートリアだね」

「子どものころは池にいるくらいだったんだけど、ここんところ田んぼの畔を削ったり、野菜を食べたり、大量繁殖しててうっとおしいんだよ」


 よく地下鉄でちょろちょろしているねずみが巨大化したように見えて、自分の目がおかしくなったのかと思ったが、あれが普通のサイズだとは。

 しかも、ヌートリア。なんだその平和そうな名前。そんな名前の架空の生きものだったら、まるっこいフォルムの無害なやつに違いない。それなのに、まったく平和じゃない生態。


「あ、稲が……。ごめんなさい」

「まっすぐに植え直してあげれば、この程度は平気」

「子どものころの俺への対応と違いすぎない? 倒したらペナルティって」

「ああでも言わないと、お前は全部踏み倒すだろうが」


 翔は「手伝わないと父さんがうるさいんだ」と言っていたが、仲のよい二人を見て、胸が温かくなる。


「海人、今日はもういいよ」

「そうだね。帰って着替えて」

「もう少し、やります。ご迷惑でなければ」

「そう? 無理しないでね」


 一人で驚いて、一人で騒いで、稲を倒した。

 もう少し、頑張りたい。濡れていても、風邪をひく季節ではない。

 海人は、せめてもう一往復はしようと決めた。


 四人で作業を終えたのは、夕方だった。そのうち海人が担当した部分は八分の一にも満たないだろう。

 それでも、少しは米作りに関われたことに、達成感がある。


「海人くん、ありがとうね。とっても助かったわ」

「あんまりお役に立てなくて、すみません」

「そんなことないわよ。これ、持って帰ってね」


 翔の母から手渡された袋には、トマトやキュウリのサラダ、それにゆでたトウモロコシ。すぐに食べられるものばかりだ。

 中身を見て「美味しそう」とつぶやいた海人を見守る翔の母の目は温かい。

 身体は疲れたけれど、いい日だったな、と思いながら帰ろうとして、ふと疑問がわいた。

 子どものころから手伝っていた翔には、友だちと遊びに行く時間はあったのだろうか。


「翔、また呼んで。次はもうちょっと戦力になる、はず。たぶん」


 翔は少し目を見開いてからふっと笑い、「気長に期待するわ」とだけ言った。


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