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第3話 四枚の皿

 緊張の掃除当番初日。朝早くから目が覚めた。門にかけられた「掃除当番」の札が、ひどく目立って見える。

 マンションでは、ゴミステーションの掃除は管理人が行っていたはずだ。その作業自体、海人には認識がなかった。この地になじむためにも、しっかりと努めよう。


 自転車で朝八時の少し前にゴミステーションに向かう。この地区のゴミステーションは、鉄の金網で囲われたしっかりとした小屋になっていて、カラスの侵入を許さない。

 「本日の収集は終わりました」と書かれた札を裏返し、入り口を開ける。朝八時より前に出してはいけない決まりだが、すでにいくつか市の指定ゴミ袋が置かれていた。


 さっそく、一人目が来た。車から降りてきた男性は、黄色いゴミ袋を手に持っている。

 海人は、朝の太陽に負けないさわやかな笑顔を浮かべ、感じよく声をかける。


「おはようございます」

「……あんた、だれ?」

「尾上の家に越してきました。祖父が大変お世話になりました。これからよろしくお願いします」

「ああ、あそこ」


 それだけ言うと、ゴミステーションにゴミ袋を入れ、車に乗り込み、街のほうへ向かっていった。

 ゴミを持って部屋を出て、ゴミ置き場に置いてから、歩いて駅に向かう。海人にとってはゴミ出しとはそういうものだったが、それがここでは、車に乗ってゴミステーションに寄るとなるのが、とても新鮮だった。

 自転車で来る人、出勤途中の車で来る人がほとんどで、歩きの人はほとんどいない。

 多くの人が、海人をじっと見てからすぐに目をそらす。地区に入ってきた未知のものが無害かどうかを観察されている気分になる。


「おはよー、海人。やってるー?」

「菜美、おはよう。まあ、なんとか」

「源さん、話していた海人。海人、源さんは私のお隣さんで、農業の達人だよ。いろいろ教えてもらうといいよ」

「海人です。よろしくお願いします」


 源は海人の全身を眺めると「弱っちいな」とつぶやいた。自分でも分かっている。海人の肌はオフィスに籠っていたせいで太陽を知らない。田畑の広がるこの地で、この白く細い腕だけでやっていくのは心細い。


「よし、三十分になった。海人、お昼までには収集車が来るから、そしたら掃除しておいてね。源さん、このまま海人の畑見てあげてよ」

「菜美ちゃんの頼みじゃ断れん」

「ありがとうございます」


 こちらの都合などお構いなしにスケジュールを立てる菜美の先導で、三人そろって、自転車で海人の家に向かった。


 源の前には、枯れた菜の花の合間から雑草が伸びる畑。もう少し整えてから、誰かに相談したかったのだが、いい機会なのだろう。


「んで、何を植えたいんじゃ?」

「まずはオクラがいいかなと思っています。暑さに強いと見たので」

「てごせんでええから、最初にはえかろう」


「てご」が何か分からないために、反応の薄い海人を見て、菜美が通訳してくれた。世話が必要ないから初心者に向いているそうだ。


「おめえ、野菜を育てたことはあるんか?」

「ありません。小学校で朝顔は育てました」

「あはは。海人、オクラの観察日記付けたら?」

「……考えておく」


 言い返すのも大人げないと思い、ぐっとこらえた。

 ここで出すものではないと分かりながらも、海人が育てた経験のある植物は朝顔しかなかったのだ。


「まずは、この枯れてしまった菜の花を抜かないといけないと思うんですが」

「これは小松菜じゃ。尾上のじいさんが入院する前に植えとったんじゃろう」


 食べるために育てていたのに、花が咲いてしまった。

 春のあの日に海人の心に強烈な印象を残した黄色は、意図せず残された祖父の生活の残骸だったのか。


 源は「ちょっと待っとれ」とだけ言って、自転車で家に帰っていった。

 突然とり残された海人と菜美は、顔を見合わせる。源を待つあいだ、日差しをよけて縁側に入った。


「お天気なのに、なんで軒下に干してるの?」

「え? 洗濯もののこと?」


 洗濯ものと外の物干しを見比べながら、菜美が言った。


「そう。外空いてるのに、お日様に当てないの?」

「ここなら雨降っても濡れないから」

「天気予報見た?」


 マンションのベランダの感覚で軒下に干していただけなのだが、日に当てるのは、晴れの国のプライドだろうか。

 まあいいけど、と言いながらも、あまり納得していなそうだ。


「それで、どう? 少しは慣れた?」

「それなりに」

「海人、ここの人たちは、ずけずけ他人の中に入り込んでくる。いやなら、早めに帰ったほうがいいよ」


 この土地ではそういうものなのだと、菜美の真剣な目が語っている。それは菜美もだよね、という言葉を海人は飲み込んだ。


「私はここで生まれ育ったから慣れてるけど、それでもときどきうっとおしく感じるもん」


 海人の隠した言葉が聞こえたように、菜美は少しだけ笑った。


「うちの近所のたかしくんのお嫁さんは、いなくなっちゃった。あれこれ言われるの嫌だったんじゃないかな」

「都会の人?」

「そう。岡山の街の人」


 同じ岡山でも、なじめない人がいる。ここはそんな場所らしい。


「私もさ、デザイン会社の仕事がいやになって帰ってきただけなのに、『都会で男に振られたんか』とか『早く結婚して親を安心させてやれ』とか、面と向かっていろいろ言われてるよ」

「それってセクハラ……」

「いまそういうのダメだよって言っといたけどさ。何十年も太陽を向いて咲いてきたヒマワリに、いまさら月を向けって言うようなもんだからねえ」


 明るく笑う菜美は、けれど目の奥に傷を宿しているように見える。

 こんなところで、本当にやっていけるのだろうか。引き返すなら、いまかもしれない。


 そこに、エンジン音が近づいてきた。そちらに目を向けて、驚く。


「ええーっ! 源さん、そっち? 耕運機じゃないの? そっちなの!?」

「いちいちやっとられるか。全部潰すんなら、こっちのほうがはええ」


 車よりも大きなトラクターに乗った源が、庭に入ってきて、そのまま畑へと進んだ。

 源は生い茂る雑草も、枯れた野菜も、すべてまとめて耕し始めた。トラクターの後ろにつけられた大きな爪が、土を掘り返し、雑草も野菜もその中に混ぜ込んでいく。源は器用に、畑の端まで乾いた土を茶色に変えては、切り返している。

 ちぎられた緑の匂いと、土の湿った匂いが、土ぼこりを避けて離れたところで見ている海人たちのところまで届く。何かが始まりそうな、そんな香り。


「まだ、なんにもできてないから。貯金あるうちはここにいるよ」

「そう」


 それを聞いて、菜美はうれしそうに笑った。


「オクラの苗って、どこに売ってる?」

「JAとか、ホームセンターとか。JAはどうかな。もう終わってるかも」


 だったら、ホームセンターにしよう。このあたりのホームセンターなら、いろいろなものが売っているだろうから見てみたい。


 菜美が帰ってから、ホームセンターの位置を調べたが、けっこう遠い。距離感がつかめないが、たどり着けるのだろうか。

 海人は、菜美と翔とのグループチャットに、メッセージを送った。


海人:オクラの苗を買いにホームセンターに行きたいんだけど、これ、自転車で行ける距離?

菜美:行ったことないけど、厳しいかも

翔:服買いに行くついでがあるから、乗っていくか?

海人:お願いしてもいい?


 知り合ったばかりで甘えるのも申し訳ないが、他に手段がない。

 運転できないのが痛い。落ち着いたら、ペーパードライバー研修に通うことも検討しよう。



 翌日は、朝から雨が降っている。今年は空梅雨でなかなか雨が降らず、水不足が心配されていたので、恵みの雨だ。

 海人はこの機に、台所を片づけることにした。いい加減、コンビニ生活から抜け出したい。オクラを育てて収穫できたら、ちゃんと料理をして食べたい。


 まず、鍋と食器類を確認した。

 祖父は自炊をしていたのか、それなりに鍋がそろっている。フライパンと手鍋があるので、料理するには十分だろう。

 次に食器棚を開けて、海人は思わず手が止まった。


「何人家族で住むつもりだったんだよ……」


 同じ柄のお皿が、四枚ずつ。それも複数種類。備前焼の皿もある。

 住み慣れた都会を離れ、地方に一人移り住み、悠々自適の生活を送っていたのだと思っていた。持ち主を失った食器類が、心なしか寂しそうに見える。

 その中から使い勝手の良さそうな深皿と平皿、どんぶりとコップを選んで一つずつ出すと、扉を閉めた。


 鍋と食器を洗った後は、冷蔵庫の掃除だ。

 いまあるものは、すべて捨てることにした。冷蔵庫の中には、食べかけの食材がいろいろある。牡蠣のアヒージョの瓶詰は、封が開いていない。美味しそうだが見ると賞味期限が切れていた。これは祖父が自分で食べるために買ったのか、誰かに食べさせるために買ったのか、それとも誰かからもらったのか。考えると胸に重い鉛が詰まったような気分になる。


「瓶は洗って、資源化ゴミ。……明日も当番か」


 ゴミを分けながら、明日の当番を思って憂鬱になる。またあの探るような視線を受けると思うと、いまから気が重い。


 夕方、これから迎えに行くと翔から連絡があった。あわてて準備していると、外で車のクラクションが鳴って、海人は財布だけを持って飛び出した。

 翔の車は、軽バンだ。見栄えよりも実用性を重視しそうな翔のイメージが当たって、少しうれしい。


「オクラの苗だけでいいんだよな?」

「うん。翔は?」

「普段着。リモートで仕事してるから。俺SE」


 それだけ言うと、翔は運転に集中し、海人のことを視界から閉め出した。

 夕方、帰宅時間ということもあって、交通量が多い。道路わきの店舗には、大きな店が多い。


「まずホームセンター。そこ」

「先に翔の用事済ませてからでいいよ」

「駐車場に入りにくい」


 片側二車線の道なので、対向車線からこの駐車場に入ろうとしている車が、流れが切れるタイミングをうかがっている。

 左折して、広い駐車場に入ると、翔は店の近くの空いているところに車を止めた。すぐ近くには、軽トラが停まっている。

 翔はすたすたと進み、花の苗が置かれているコーナーの奥を指差した。


「苗はこの辺。オクラは、あった、これだな」

「どれがいいか、分かる?」

「育ったら一緒」


 つまり、育て方次第ということか。

 一本からそれなりに収穫できるようなので、五本あれば十分だろう。それでも千円に満たないので、もう少し足すか悩んだが、海人は、かごに苗を五本入れた。

 翔はかごを見て、少し考えるそぶりを見せたが、何も言わなかった。


 購入したオクラの苗を、車の足元に置いた。これが育って食べられるようになると思うと、胸が躍る。鼻歌を歌いたい気分だ。


「お前さ、長袖持ってるか?」

「秋になったら買おうと思ってる」

「……じいさんの服でもいいから探しとけ。肌出してると、虫にやられるぞ」


 農作業のときに着る服か。そういえば、考えていなかった。


「祖父って、僕と同じくらいの体格だった?」

「……お前、知らないのか?」

「会った記憶がないから」

「お前よりちょっと背が低かった気がする」


 それなら、サイズが合わないと面倒なので、翔が服を買うときに一緒に買ってしまおう。


 手早く服を買い終えると、翔は海人を食事に誘った。


「ついでに、飯食って帰ろうぜ」

「いいけど、家は?」

「言ってある。たまには外のもん食べたい」


 海人が同意すると、車は国道沿いのファミリーレストランに入った。このあたり、駐車場が広い。店も広いが、それ以上に駐車場が広い。


「で、どう?」

「草取りが大変」

「だろうな」


 そう言ってから、あくびをした。どことなく、力がないように見える。


「疲れてるのに、ごめん」

「気分転換。気にするな」


 翔は、注文した肉が中心の定食をガツガツと食べている。海人は、なるべくバランスのいいものと思って、野菜が多めの魚定食を選んだ。久しぶりに魚を食べた気がする。といっても、瀬戸内の海の幸ではないが。

 食べるのに集中しているため、会話はない。けれど、居心地は悪くない。友人というには付き合いが浅く、同僚でもない人と食べる食事。不思議な時間だった。


「ここは僕が払うから」

「ついでがあっただけだ」

「それでも。車出してくれて、ありがとう」


 海人は強引に会計を済ませた。

 このあともまた仕事だと言っていた。そんな中で車を出してくれたことへの感謝だ。



 翌朝、掃除当番に立っていると、源がやってきた。


「おい、オクラの苗は買ったんか」

「おはようございます。昨日買いました。今日の夕方植えます」

「夕方家に行くから、用意しとけ」


 それだけ言うと、源はゴミも出さずに帰っていった。


 源が来ると聞いて、海人は畑に手を入れるのを止めた。

 ネットで調べたとおりにやってみようと思っていたのだが、源のやり方と違っていたら、むしろ手間をかけてしまうかもしれない。


 夕方やってきた源は、平らな畑と、そのそばに置いた苗を見ると、何も言わずに、納屋から鍬を取り出した。

 納屋の中には、祖父の残した道具がたくさん並んでいる。鎌、鍬は分かるが、そのほか何に使うのか分からないものも多い。

 源が鍬を何度か動かして、畝ができると、その盛り上がった土の上に、苗のポットを等間隔に並べて置いていく。


「穴を掘って、この土ごと入れる」

「穴はこの苗の土が埋まるくらいですか」

「そうじゃ」


 海人はスコップを片手に、源の真似をしながら、苗を一つずつ土に植えていく。

 海人が苗を買った後に動画で調べていた手順は、何一つ役に立たない。


「茎をひっぱるな。切れるぞ。下から押し出すか、逆さまにするんじゃ」

「なるほど。勉強になります」


 源の手元を見て、同じようにやってみると、苗がスポッと抜けた。その感触が面白くて、入れては出してを繰り返す。


「おめえは菜美ちゃんよりもダメじゃな」

「はあ」


 この地で育った菜美と比べないでほしい。マンションで育った海人にとって、土はなじみがない。

 愛想笑いする海人を、源は静かに見ている。その目にあざけりはないが、どこか探るような光がある。


「明日から水をやれ。たっぷりな。昼にやると根が煮えるから、朝がええ」

「分かりました。ありがとうございます」


 畑の一角に苗が植わったことで、荒れていた庭が、生き返ったように見えた。


 その日から海人は、朝水をやってから、苗の写真を撮っている。毎日の写真が並ぶと順調に育っているのが分かりやすく、菜美のいう観察日記のようで、笑いがこみあげた。


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