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第2話 町内へのあいさつ

 翌日は朝早くから町内会長の家に向かう。

 少し憂鬱な気持ちで、起き上がる。昨日、菜美とともに訪れたときは不在だった。かといって、これ以上遅らせても何もいいことはない。パチンと両手で顔を軽くたたいて、気合を入れた。


「ちゃんとした服なんか持ってきてないぞ」


 それなりの格好をしていったほうがいい気がするが、普段着しかない。もういまさらだと、何かのときのためにと、東京で買ってきた手土産を持って、家を出た。


 ここでの時間はゆっくり進んでいると思い込んでいたが、朝がせわしないのは、どこも変わらない。

 水の張られた田んぼの中を、子どもたちが徒歩や自転車で学校へ向かっている。そのそばを駆け抜けていく車。


 町内会長の藤原の家は、いかにも農家という構えをしている。農機具を入れるのだろう納屋があり、敷地内には畑。周りを田んぼに囲まれている。


 よそ者からこの地の者への第一歩。海人は手に力を込めて、玄関のチャイムを押そうとした。

 しかし、それよりも早く、作業小屋から男性が現れた。

 長靴を履いて麦わら帽子を被り、これから農作業に出るところのようだ。「藤原さん、朝早いよ」とは聞いていたが、ギリギリ間に合った。


「おはようございます。尾上の家に引っ越してきました、海人です。朝早くから申し訳ございません。この時間なら」

「ああ、菜美ちゃんから聞いとるよ。尾上さんの孫じゃろ」


 あいさつを遮り海人を品定めするように、頭のてっぺんから足先まで視線が無遠慮に動く。必死に人当たりのいい笑顔を務めて浮かべ、リーフパイを差し出す。


「ごあいさつが遅れまして申し訳ございません。これからどうぞよろしくお願いいたします。こちら、つまらないものですが、お収めください」

「すまんの。んで、菜美ちゃんからずっと住むって聞いたが、片づけに来ただけじゃないってことでいいか?」

「はい」


 藤原は受け取ったお菓子を無造作に泥のついたネコグルマの上に置いた。

 そして農作業の準備をしながら、海人のほうを見もせずに話を続けた。


「今年の町内会費は、おじいさんからもらっとる。乙羽神社の会費もな。じゃが、あの人は朝の掃除当番を一回もやらんかった」

「……それは、ご迷惑をおかけしたようで大変申し訳ございません」


 こちらを見もせず準備を続けている藤原の背中は、海人も謝罪も拒絶している。けれど、少なくとも返事はある。

 そしてここでも出てきた氏神。神社に会費があることを、海人は初めて知った。


「隣の中川さんが黙って尾上のじいさんの分までやってくださっとったんじゃ。ちゃんと頭下げておけよ」

「はい。このあと伺わせていただきます」


 言葉がいくつものトゲとなって海人の心に突き刺さる。

 祖父の負の遺産がのしかかり、上手く息ができない。なぜ海人が、よく知らない祖父の後始末をしなければならないのか。


「まあとにかく、今度はちゃんと掃除当番やってくれよ」

「もちろんです」

「回覧板をよう見とけ。川掃除や会合には出てもらうからな。若い衆が増えてみんなよろこぶ。ああ、引っ越してきたことは回覧板に載せるぞ」


 それだけ言うと藤原は、海人を見もせず、道具を持って畑へと向かった。

 祖父は、この土地に受け入れられていたのか、いなかったのか。海人には分からなくなった。

 なにより、「尾上さんの孫」「よそ者」「若い衆」。「海人」として扱ってもらえる日が来るのか、それはいつになるのか。


 藤原の背中を見送りながら、菜美が昨日言っていた「都会の人にはちょっと面倒かもしれないけど、みんな悪い人たちじゃないから」という言葉をかみしめた。


 田んぼのあいだの道を歩きながら、海人は少しだけ足を止めた。

 遠くで軽トラックの音がして、それがやけに広い空に響いていく。

 町内会費、掃除当番、神社の会費。なにも知らないまま、この土地に入ってきた気がした。


 帰ってすぐにリーフパイを持って、隣の中川さんの家に向かう。ここで一度家に入ってしまうと、二度と行けない気がした。

 隣といっても、家と家のあいだには田んぼがある。

 

 にこにこと笑う中川は、祖父と同年代に見える。海人の差し出したお菓子を「ご丁寧にありがとう」と言いながら受け取った。

 しばらく立ち話をした海人の印象は「とてもお人好しで優しいおばあちゃん」だが、どこか目が笑っていない気がする。


「久しぶりにこんな可愛い男の子と話したから、長話しちゃったわ。ごめんなさいね」

「……私もお話できて楽しかったです。もっと早くにごあいさつに来るべきでした。どうぞこれからよろしくお願いいたします」


 意味のない音が口から出そうになり、なんとか飲み込んだ。

 男の子。そう呼ばれたのはいつ以来だろう。社会人としての経験をすべて無に返されたような衝撃的な一言だ。

 田んぼの水面が夏の日差しに揺れていた。


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