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第1話 灰色のよそ者

 梅雨入り直後の六月。海人は庭で雑草と戦っている。

 田んぼには水が入り、短い稲が風に揺れる。水面が夕日を反射してキラキラと輝く。


 まずは玄関前を整えようと雑草を取っているが、まったく終わらない。日が落ち始めた夕方なのに蒸し暑く、額から汗が滝のように流れ、爪の中に土が入り指先が黒くなっている。

 顔を上げると、初夏の日差しを目いっぱいに取り込んだ草が、畑と花壇に広がっている。土が見えているのは、海人の周りだけだ。


「暑い……。今日はここまでにしよう」


 草削りをバケツに入れ、手袋を外して顔を上げる。そこには、雑草に覆われた畑があるはずだった。


「……水?」


 畑の上で、水面の光が揺れている。

 目の前の畑が、水の底に沈んでいるのだ。けれど、雑草は水に揺れていない。


「なんで……?」


 カラスの鳴き声に我に返ると、普通の畑が広がっていた。海人は一度目を閉じてから見直したが、景色は変わらない。

 畑のそばに猫がいた。背中に薄い茶色が少し入った白い猫が、座って畑を見ていた。


 麦わら帽子を脱いで屋内に入り、冷蔵庫から冷たい麦茶のペットボトルを取り出した。喉から入った冷たい液体が、身体の熱を冷ましていく。



 自転車で五分のところにあるコンビニは、道路の脇にポツンとあり、駐車場がとても広い。

 いまはこの都会的な灯りに、少しホッとする。


 何日か分の食料を買って、自転車で帰る。街灯が少なく、用水路には柵がないので、夜は特に危険だ。

 田んぼの向こうに見える祖父の家は、周りの家の灯りからは少し離れて、静かに眠っていた。


 広い家の中、海人が使っているのはごく一部のみ。暗闇の中、手探りで電灯のスイッチ探す。他人の家に勝手に上がり込んでいるようで、灯りがついてやっと肩の力が抜けた。

 弁当を食べ終わってゴミを袋に入れれば、これから作る野菜の調査だ。


「七月に植えるものは……オクラは暑さに強いか。これがよさそうだな。苗ってどこで買えるんだろう?」


 そもそも店がどこにあるのかも分からない。寝転がりながらネットで調べて探す。


――ゲコゲコゲコゲコゲコゲコ


 静かな土地だと思っていた。けれど、生きものの声で満ちあふれている。夜は特に。



 気分転換のために、朝早くから近くの川の土手に向かった。

 家から土手までのあいだは田んぼしかなく、近くに見えた。だが、なかなか着かない。遠くが見え過ぎる土地は、距離感を惑わせる。

 やっとたどり着いた土手にのぼって振り返ると、まっすぐな道とその脇を流れる用水路で区切られた田んぼが広がっていた。

 川は、さらにまっすぐで、案内板には「百間川」とある。河川敷には公園やテニスコートもある。

 河川敷のあいだを流れる川は、穏やかだった。


 土手を下って河川敷に降りる。初夏の朝の太陽の中、冷たい風が気持ちいい。

 そこに、テニスボールがころころと転がってきた。


「すみませーん、取ってくださーい」

「あ、はい。投げまーす」


 テニスコートの横にいる男性が、海人に向かって手を上げている。海人はテニスボールを彼に向かって投げた。


「ありがとうございます」

「いえいえ」

「ありがとー」


 彼と一緒にテニスをしている女性も、コートの反対側から大きく手を振ってくれた。

 カップルかな、と思いながら、近くのベンチに座ってなんとなく二人のテニスを眺める。ボールが二人の間を行き来している。

 ぼんやりとテニスコートを見ていたら、いつの間にか目の前に男女がいた。


「ねえ貴方、動かないけど大丈夫? 熱中症?」

「違います。心配かけてすみません」


 心配そうな顔で話しかけてきたのは、テニスをしていた二人のうちの女性。


「一人で散歩? 一緒にテニスしない?」

「え?」

「ちょっと休憩したいの。代わりお願い」


 それだけ言うと海人にラケットを渡し、自分はベンチに座った。

 思わず受け取ってしまったラケットに目を落としてから、海人は男性を見る。涼しい風が吹き抜けた。


「なんか、ごめん。付き合ってもらっていい?」

「高校の授業くらいしか経験ありませんけど」

「俺もだから。ただの気分転換」


 二人でコートへ向かい、打ち合う。

 草取り以外で身体を動かしたのは久しぶりだ。

 ボールに当てるのが精いっぱいだが、それでもラリーが続くと気分がいい。

 それから、しばらく三人で交代しながら打ち合いを楽しんだ。


「どこに住んでるの? 近所?」

「はい。東京から移住してきたばっかりです」

「私も去年埼玉から帰ってきたんだ」


 女性は東京の会社を辞め、Uターンしてきたという。縁もゆかりもない地で、思いがけず知り合いに出会ったような気がして、ほおが緩む。


「なじめなくて帰る人、多いらしいけどね」

「翔、不安をあおらないでよ。岡山いいところでしょ。何もないけど」

「そんなことないです。こんなに、色があふれてる」


 少し強くなってきた光を受けて柔らかに光る川、河川敷に並ぶ遊具、遠くに見える山。

 二人は目を丸くして海人を見たあと、顔を見合わせて笑った。


「……詩人だわ。詩人がいる」

「色か。なんか新鮮」


 二人は、ぐるっと周りを見回している。

 隣のコートから転がってきたボールを拾って投げると、女性が言った。


「ねえ、詩人くん、名前なんて言うの? 私は菜美」

「俺は翔」

「海人です」


 話してみると、二人は幼なじみで、二人とも海人の近所に住んでいることが分かった。

 引っ越してきてから思うようにいかなかった嫌な流れが、近所に住む同年代の人に出会えたことで少し好転しそう。そんな予感に、海人の心が軽くなる。そのことで、自分で思う以上に、この状況に疲弊していたのだと気づいた。


「尾上さんところに越してきたの?」

「はい」

「あー、あそこか」

「ねえ、ご近所にあいさつした? してないでしょ?」

「してません」

「だよね。回覧板来ないし。まずは町内会長にあいさつしなきゃ」


 町内会長。そんな存在がいること自体をまず知らない。東京では、エレベーターで乗り合わせた人がどの部屋に住んでいるのかも興味なかった。

 引っ越し先で上手くやっていくコツは、その土地の顔役にあいさつすることだとネットで見た。ただ誰が顔役なのか分からないからと後回しにしてしまっていた。


「あの家に住むなら、農業やるつもり?」

「あ、はい」

「仕事はリモート? でも君はバッサリやめてくるタイプっぽく見える」


 たまらず一歩下がった海人を気にせず、ラケットを振り回しながら、菜美はぐいぐいと踏み込んでくる。口を開く隙がない。

 そんな二人を見て、翔が苦笑いしている。


「菜美、質問しすぎ」

「だって気になるじゃん」

「近所のおばちゃんかよ」

「実際みんな気にしてるし」


 知らないところでうわさ話をされていると知って、肩に力が入る。

 戸惑うことも、気になることもあるが、ここはまずはこの地区に対しての礼儀を通すべきだろう。


「あいさつに行きたいので、町内会長さんの家を教えてください」

「うちのすぐ近くだから、このあと一緒に行こう」

「あ……ありがとう」


 海人の決意を軽く返されて、拍子抜けする。


「それで、農業やるの? 経験なさそうだけど」

「はい。少しずつでもやっていくつもりです」


 爪のあいだに土の入った自分の手を見ながら答える。

 だが、そもそも何から始めればいいのか、海人はまったく分かっていない。

 農協に相談に行こうとしたが、道に迷い、暑さに負けてあきらめた。


「まあ、やってみればいいんじゃない?」

「こら、翔」

「現実を知って再出発するなら、早いほうがいい」


 翔は悪気なく言っているのだろう。だからこそ、胸に刺さった。

 風が吹き、テニスコートの端に落ちていた黄色いボールが転がっていく。海人は、それを黙って見ていた。


 帰りがけ、高い木に囲まれた立派な瓦屋根が見えた。


「あれは、神社?」

「そう。乙羽さん。ここの氏神さま」


 菜美は自転車をこぎながら言った。


「祭りのとき以外は、あんまり人いないけどね」


 氏神という響きが、土地に根づいている感じがして、新しい。今度時間があるときに、訪ねてみよう。


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