プロローグ いのちの咲く土地
岡山に住む祖父が亡くなった。
だが、顔が思い出せない。写真を探してみるが、見つからない。
葬儀のために訪れた岡山は、鮮やかな色にあふれていた。
昔ながらの木造かわら屋根。
畑には、菜の花が咲きほこる黄色。
田んぼには、明るく優しい赤紫色のレンゲの花のじゅうたん。
遠くに見える低い山には、緑の木。
すべてが、春の柔らかな陽光に照らされ、輝いている。
「……いのちが咲いている」
息を吸うごとに、土と花の香りが海人の胸に入る。
景色の輪郭が、水底のようにゆらいだ。
東京に戻っても、海人の心は岡山に捕らわれたままだ。毎朝、満員電車から外を見る。灰色のビルばかりで、季節がどこにあるのか分からなかった。
「岡山へ行こう」
小さく声に出す。それは、だれに向けたものでもなく、自分自身への宣言だった。
祖父の四十九日の法要は、先祖代々の墓がある千葉のお寺で行われた。それが済むと、海人は岡山への新幹線に乗った。三泊旅行ぐらいの着替えと日用品だけを持って。
どうしても持っていきたいものは、なにもなかった。
海人は窓の外に目を向けた。
スマートフォンが着信の通知を告げる。見ると、会社のグループメッセージへの歓迎会のお知らせだった。海人の退職のあいさつは、もうすでに流れて埋もれている。
トンネルの多い区間に入ったため、耳が詰まる。軽くて重い日々を、つばとともに飲み込む。
海人はグループを抜けるボタンを押し、アプリを閉じ、スマートフォンを伏せた。
そのとき、視界がパッと明るくなり、窓の外に目をやる。
深い緑色の小さく丸い山の間に広がる、鮮やかな緑の田んぼと、その間を走る直線の細い道。白色の軽トラだけが動いている。
海人は知らず笑みを浮かべていた。
東京から三時間十五分。そこからタクシーで三十分。
名前しか知らない祖父の過ごした土地での、海人の新しい生活が始まった。
本作は実在の地理や災害を参考にしつつ、複数の事象をもとに再構成したフィクションです。
物語や登場人物はすべて創作であり、実在の人物・団体とは関係ありません。




