第24話 平らな地
何十年に一度という雨にもかかわらず、旭川と百間川の堤防を水が越えるようなことはなかった。江戸時代から続く治水が功を奏して、大量の雨水を児島湾へ押し流した。
けれど、百間川の流域も、そして守られたはずの市街地も、無傷とはいかなかった。水をさばききれず広範囲で冠水した。
収穫直前の稲が倒れてしまったので、収穫量が減る可能性も指摘されている。
それでも、翌日から、田んぼのあいだを白い軽トラが走り、田畑の手入れをする人たちが動き回っていた。
土手から見る百間川は、いつもより増水しており、河川敷の公園には、茶色の泥が残っている。
いま海人の立つ土手まで水は迫っていたと聞いた。見た人によると、本当にあと少しだったらしい。
振り返ると、豪雨がうそのように晴れ渡った空の下、倒れた稲が広がる田んぼは静かに光を浴びている。
その間を走る道では、自転車の中学生たちがいつものように列をなして走っていた。
今夜は、ここのところの片づけで大変だろうと、菜美の祖母が食事を作ってくれたので、海人の家で三人で夕食だ。
「畑どう?」
「人参とブロッコリーはダメかも。キャベツはなんとかなりそう」
「うちは植えたばかりのものはないから、根が腐らなければ大丈夫そう。病気が来たら、しょうがない」
まだ芽が出てそんなに経っていない野菜は、水に負けてしまうかもしれない。
それでも、「もっかいまきゃええ。間に合う」という源の言葉に、海人は悲観するのを止めた。
「翔のところは?」
「仕事で見てる時間がない。もうすぐ試験もあるのに」
翔はまた仕事が大変な状況になっているらしい。仕事は待ってくれない。
「『南のほうは干拓地だから、水抜けなくて大変だって聞きましたけど、大丈夫ですか?』っていいながら、仕事振るなよな」
「試験準備は?」
「まったく。ただでさえ時間ないのに、この雨だ」
翔はため息をついてから、ナスの煮びたしを口に入れた。状況が想像できて、海人はひきつった笑いしか出ない。
「私の漫画にも、けっこうコメント来てる。地元だろうなって人からも」
「そういえば、変なコメントついてたな。あれは外からだろ」
「うん。正直コメント欄閉じるか迷ってる」
菜美がSNSで連載している漫画は、先日の豪雨をきっかけに一気に拡散された。土地の成り立ちが分かりやすく書かれていたことが、思いがけず注目を集めたのだ。それ自体は悪いことではないはずだった。けれど、思わぬ波紋が広がっていた。
「姫のタタリだとか……好き勝手言われてたな」
「あれは、外でしょ」
「姫を守れって、いまさら言われても無理じゃない?」
「乙羽さんに、『姫のグッズありますか』って問い合わせまで来たらしくてさ……」
「聖地巡礼……?」
「そこまで有名にはなってないよ」
軽口のように言い合いながらも、どこか乾いた空気が残る。
外から見ればエンタメだろうが、この地では収穫前の稲が倒れ、畑の作物も水に沈み腐ったものもある。
緑の美しさに無邪気に感動して、この地の成り立ちなど気にせず移住した海人もまた、かつて、同じ側に立っていた。
「炎上は終わったっぽいから、このままでいいんじゃないか?」
「神社の人はなんて?」
「先に言っといてほしかったって」
「怒ってはないんだ」
「氏子で嫌がる人もいるだろうから、って感じ」
ただ、この土地のことを書きたいだけだったのに、不本意な取り上げられ方をしてしまった。
「このまま書き続けていいのかな」
「やめるのか?」
「あんなふうに言われたかったわけじゃないから」
SNSの話題はもう次に移っている。神社が怒っていないなら、このまま続けても問題ないと海人は思う。
「そういえば、町おこしのNPOは?」
「大変そうなので、連載に集中してください。こちらはお気になさらず、だって。こっちから断ってたのに」
炎上をに巻き込まれたくないのだろう。その気持ちは分からないでもないが、ちょっと誠実さが足りないかな、と海人は菜美に同情した。
「僕みたいに、知らずに来る人もいるから、菜美の漫画はあったほうがいいと思う」
「知ってたら来なかった?」
祖父の葬儀のときにこの地の成り立ちを聞いていたら、どうしていただろうか。
「変わらなかったかも」
それでも、知っておきたかった気がする。
「後から知るよりは、ってことだろ」
「うん。ここってさ、水と戦うっていうより、水と共存してきた感じがするよね」
地元のニュースでは、泥がたまった旭川の河川敷と、変わらず桃をかかげる「水辺のももくん」が映っていた。
「いや、干拓したり、放水路作ったり、戦いだろう」
「そうなんだけど、今回、みんな仕方ないなって感じで怒っていないというか」
「実際仕方ないだろ」
怒ってもどうにもならないなら、畑を作り直したほうが早い。そういうことなのだろう。
「水って言えば、ここ、南海トラフ地震で津波来るよ」
「えっ」
何でもないことのように、菜美が言った。
海人は里芋の煮物を取ろうとしていた箸を止めて、菜美をまじまじと見てしまった。
「津波来たら、どこ逃げるの?」
「小学校」
当たり前のことを聞くな、というような翔の返事。
「でも、ここに来るなら、小学校も来るよね?」
「来るだろうな」
同じ干拓地内にあるのだ。小学校の周りだけが無事、ということにはならない。避難できる高さはあるけれど。
「津波のときは、隣の小学校だったはず」
「操山に行けばいいだろ」
子どものころからこの地にいる二人には、あそこなら問題ないという高台の地図が頭に入っているのだ。
「操山、遠くない?」
「自転車だな」
「瀬戸内海が守ってくれるよ、きっと」
「気になるならハザードマップ見とけ」
言葉を失った海人のことなど気にせず、二人は食事を続けた。
これが、この土地で生きるということなのかもしれない。
あきらめているわけではなく、なるようにしかならない。そんな達観のようなものを二人から感じた。




