第23話 線状降水帯
線状降水帯がかかる情報が出された。
その日は昼から強い雨が降っていた。そんな中での情報だったが、対策などしている時間もなく激しい雨に変わり、いまも降り続いている。まだ日が落ちるには早い時間だが、太陽は分厚い雨の向こうに隠れ、外は薄暗い。
スマートフォンからは、河川の氾濫情報と、どの地区に避難指示が出されたという通知が鳴り続けている。
菜美:海人、大丈夫? うちに来る? 一人じゃ不安だろうって、おばあちゃんが心配してる
海人:行こうかな……
翔:やめとけ。いま外に出るな
海人:でも
翔:川があふれている。お前じゃ無理だ
テレビからは、「命を守る行動を」と繰り返しているが、こんな田んぼの真ん中で、何ができるというのだ。
避難所は開設されていないが、されたとしてもすでにそこまでの道が冠水している。場所をしっかり把握していない海人には、雨で視界の悪い中、どこが道でどこが用水路なのか、見極められない。
菜美:フル充電しといて。停電するかもだから
海人:え?
翔:懐中電灯も探しとけよ
海人:こんなこと、よくあるの?
翔:ない
菜美:おばあちゃんも初めてだって
長くこの地に暮らす人が言うのだから、本当に「五十年に一度」という雨なのだろう。
ザアアーッという雨が屋根をたたく音が、カエルの鳴き声など比にならないくらい大きく、ずっと続いている。
テレビのアドバイスに従って二階に上がっているが、窓の外をみると、庭も畑も区別なく海になっているのが見える。田んぼが水を飲み切れずに、あふれているのだ。
海人:野菜、大丈夫かな
菜美:そういうこと言っちゃダメ!
翔:田んぼが心配だから見に行って流される、そんなべたなことをするな
海人:あ、コロ。濡れてないかな
菜美:家に入ってるよ。源さんがほっとかないって
テレビでよく、なんで災害の中わざわざ見に行くのかと思っていたが、自分がその立場になると分かる。もしいま畑に行って、植えた野菜を守る手段があるなら、無理したかもしれない。
ぴちょん、ぴちょん、とどこかから聞こえる水の滴る音が、不気味だ。
「え? 水?」
天井から水が落ちてきている。マンションに住んでいた海人は、雨漏りを初めて見た。どうしていいのか分からず、右往左往するしかない。
海人:家の中に雨が降ってる! どうしよう!
翔:こんだけ降りゃ雨漏りもするだろ。落ち着け
菜美:新聞紙敷いて、バケツ。パニックになる前に行動!
うろたえているのは海人だけで、二人とも冷静だ。こういうときに、自然に向き合う経験値の違いを見せつけられる。足りないのは、度胸なのか、覚悟なのか。
バケツを探して、祖父の残した新聞紙を敷き、その上に置く。
ぽた、ぽた、と水が少しずつ溜まっていく。その水がこのバケツからあふれたら、そのときは――。そんな不吉なことを考えてしまい、頭を振って考えを追い払う。
止まらない屋根をたたく音、バケツに落ちる雨漏りの水の音、そして避難を呼びかけるテレビのアナウンス。
海人はただ立ち尽くして、バケツに落ちる水をただ見ている。
翔:海人、行ったほうがいいか?
海人:大丈夫、たぶん。話を聞いてもらえてるから
菜美:(笑顔)
スタンプの笑顔につられて、海人も笑った。
これがこの地に来たばかりの知り合いもいないときだったら、きっと一人で膝を抱えて震えていた。
一度深呼吸をした。いまなすべきことを確認しよう。
海人:他にすることある?
菜美:大切なものを二階に上げて
大切なものと言われても、この家に失いたくないものは、何もない。
海人:ない、かな
翔:布団。今日は二階で寝ろ
菜美:通帳、印鑑、最低限の着替え
言われるままに、二階にものを集める。
屋根をたたく雨の音は、絶え間なく続いている。テレビの音が聞こえにくい。
なにか送れば、すぐに返事が返ってくる。
このまま、二人とメッセージのやり取りをしていれば、乗り切れるだろう。
そう思っていたが、それは翔のもたらす新しい情報を見るまでだった。
翔:やばいな。百間川の水位が急激に上がってる
菜美:ええっ? 上流にいっぱい降った?
翔:これは、上流のダムを放流したっぽい
菜美:ってことは
翔:こっちに流れてる
菜美:(涙)
翔と菜美の間でポンポンと進むやり取りに、海人はついていけない。
海人:どういうこと? ダムってどこにあるの?
翔:旭川の上流。水が増えてんだろう
海人:それが、こっちに来るの?
菜美:旭川があふれないようにね
翔:百間川は、もともと市街地を守るための川だ
家から見える土手の向こうを流れる百間川は、岡山城下を守るために作られた川。あふれる水を引き受ける役割だ。その機能がいま、働いている。
海人:そんな
菜美:水辺のももくんのため(涙)
菜美と訪れた、旭川の中州にあった像を思い出す。いまごろは濁流に抗っているに違いない。
そして、翔と菜美と出会った百間川のテニスコートは、いまごろ泥水の下だろう。
翔:百間川がんばれ、だとさ
菜美:ネット?
翔:ああ。岡山は百間川があるから大丈夫、って書いてるから、街のやつだろう
菜美:がんばれ。ほんとに。お願い
窓から、雨の向こうの見えない土手を見る。あの土手を水が越えたら、このあたりは水の底に沈む。いや、沈むのではなく、還るのか。ここは、そういう土地だ。
雨で煙る薄闇の中、ぼんやりと灯りが見えるところには、家があり、人がいる。
景色が揺らいで、黒い海がすべてを飲み込みむ風景が見えた。
夜中には雨の降り方も落ち着き、心細いながらも眠ることができた。
翌朝起きると雨は上がっていた。
二階の窓から見る景色は、昨日までとは違う。庭の水は引き始めているが、畑の畝のあいだには茶色い水がたまっている。オクラとキャベツの苗は見えているが、芽が出たばかりのブロッコリーとニンジンは、ダメになったかもしれない。
田んぼに目をやると、稲が折り重なって倒れている。田んぼから用水路へ続く暗渠からは、ドッドッと茶色い水が排水されているのが見える。
菜美:コロ、さっそく泥遊び中
菜美から、四本の足を泥で汚してご満悦のコロの写真が送られてきた。
ふっと笑ったことで、全身に力が入っていたことに気づいた。
最優先は、畑の排水、野菜の確認。それから雨漏りの確認。これからすることの優先順位を頭の中でつけてから、雨漏りのバケツを片づけ、朝ごはんの準備を始めた。
無事とは言い難いが、なんとか乗り切れたようだ。




