第12話 描けない姫
晴れの日が続いている。さすが晴れの国。
家の中の空気を入れ替えようと窓を開けると、湿った空気が一気に流れ込んできた。
外では、畔の草を刈るエンジン音が途切れ途切れに響いている。誰かが夏の勢いと戦っている。
海人は一度その音に耳を向けてから、朝の支度を始めた。
翔には、まだ会ってもらえない。翔の母によると、二日目からは食事も仕事もきちんとしているそうなので、ただ海人に会いたくないのだろう。
毎朝の川掃除は続けている。海人のちょっとした意地だ。
そして、海人が掃除をしていると、声をかけられることも増えた。多くは「よくやっている」という歓迎の言葉だ。少しこの地区に受け入れられたようでうれしい。
そんな中、菜美から相談があるから家に行くと連絡があった。
翔とのことを何か言われるのか。メッセージを呼んで一瞬手が止まったが、待っていると返した。
海人の警戒など知りもしない菜美は、タブレットを持って現れた。
「この土地の歴史を漫画にしてるの」
「へえ」
「やっぱり私の主戦場に立ち返ろうと思って。私しかいないでしょ」
もともとデザインや絵を仕事にしていた人だ。
画面の中には、少ない線で描かれているのに、特徴を捉えた絵。水に足を取られながら作業している昔の人たちが描かれている。江戸時代の干拓作業だろう。
「それでね、姫をどう描こうかなって」
「姫?」
「百間川と新田干拓を書こうとすると、触れないわけにいかないから」
「ごめん、分からない」
話の流れが見えず、首をかしげる海人に、菜美がポンと手をたたいて、「外の人は知らないね」と言った。
「乙羽さん、乙羽神社あるでしょ」
「お参りしたよ。開墾の守り神でしょう?」
「それが、干拓工事で人柱になったお姫さま」
「水を鎮めたって……」
菜美が悲しそうに笑った。あの神社は、人柱となった姫を祀っているのだ。
なんとなく、あの神社で水の気配を感じたのはそれが理由なのだろう。静かな水底の気配。
「それって江戸時代だよね?」
「そう」
「じゃあ、江戸時代の女性じゃないの?」
眉間にしわを寄せる菜美は深刻そうだが、海人には何が問題なのかが分からない。
名前は失伝してしまったが、江戸時代の女性だということは分かっているのだから。
「氏神さまを、勝手に漫画にしていいのかなって」
「……ごめん、僕には分からない」
海人には、こういうときに「自分の氏神さま」と呼ぶほどの信仰対象がない。初詣に神社に行く場合、そこに祀られている神については、商売の神とか、縁結びの神という見方しかしていなかった。ここの氏神も、開墾の神という認識だ。
最近海人は、自分は祈る感覚が薄いのだと感じている。
源を見ていると、ふとしたときに自然への畏敬の念を感じる。土地に感謝し、土地ともに生きる。それを行動にすると、源になるのだと思った。
海人の祈る相手は、だれなのだろう。
「ううん、むしろ自分が何に引っかかってるのかが分かった。ありがとう」
「どういたしまして?」
「決めた。姫の顔は描かない。雰囲気だけでいく」
菜美は海人に話すことで考えを整理できたようだ。
タブレットを閉じると、ふうと小さく息を吐いた。
何もないところから作り上げる苦しさは、農業も創作も同じなのかもしれない。菜美の迷いは、海人自身の迷いにもどこか似ている気がした。
話を変えようと、昨日気づいたことを尋ねた。
「そういえば、南の山って、去年山火事があったんだよね?」
「そうそう。ヘリコプター飛んでたね」
山火事が相次いだ中に、岡山もあったよなと思って調べたら、まさかの家から見えている山で驚いたのだ。
「もしかして、燃えてるの見えてた?」
「夜はくっきり見えてたよ」
山火事が見えるという恐怖が想像できなくて、海人には飲み込めない。気軽に聞いたことを少し後悔する。
「怖い、よね」
「別に。間に湾あるから。ただ、洗濯物臭くなったんだよね」
軽く返されて、混乱してしまった。さえぎるものがなくて見えてしまうものとの距離感が、いまだにつかめない。
そのとき、外の草刈りの音がまた少し近くなった。金属が草を断つ乾いた音が、一定の間隔で続いている。
「それで、翔とは? 私にも返事くれないんだけど」
「一度道ですれ違ったけど、目をそらされた」
「意地になっちゃってんのかな」
翔が何を考えているのかは分からないが、菜美にも返事をしないというのが、うっすら不穏だ。
「そうそう、これ。おばあちゃんが、海人にあげろって」
そう言って菜美は、紙袋を押しつけてきた。
袋の中には、たくさんのピンクの小さな箱と、黄色い和菓子が入っている。
「こんなにいっぱいもらったら悪いよ」
「法事で、集まっちゃったの。食べきれなかったら、冷凍して」
けれど、岡山と言えば、というお菓子が入っていない。
「きびだんごじゃないんだ」
「きびだんごは観光客の。地元は大手まんぢゅう。むらすずめは倉敷の親戚から」
帰る準備を始めながら、菜美は地元のお菓子の種類をあれこれと上げていく。覚えられないので、買う必要があったら、そのときにあらためて相談しよう。
「そうだ菜美、スイカいる? 源さんに一玉もらったんだけど、食べきれなくて」
「うちにもある」
大きなスイカが、冷蔵庫の野菜室を占めている。菜美の家でも作っているだろうし、なくても隣人である源がお裾分けしているだろう。
悪くならないうちに、頑張って食べよう。三食とおやつに食べれば、痛む前に食べきれるはず。
「うれしい悲鳴なんだけどさ」
「季節の終わりなんてもっと大変だよ? 次植えるために全部採って、行き場がなくて冷蔵庫」
「……それは」
「うちはおばあちゃんがせっせとおかずにしてくれるけど、海人は気をつけなよ」
オクラがあまり続けている海人には耳が痛い助言だった。




