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第11話 朝の用水路

 翌日、重い身体を何とか起こして、念願のシャワーを浴びて出ると、朝から菜美が訪ねてきた。

 ちょうど風呂場にいるときにメッセージが来ていて返せなかったので、心配してくれたらしい。


「わざわざごめん」

「翔のお父さんが心配して、連絡くれたんだ。熱中症って聞いたけど」

「それはだいぶ平気。腕が上がらないけど」


 身体のだるさは残っているが、問題はない。

 けれど、腕の筋肉痛は別だ。髪を洗いたかったのに、手が上がらなかった。シーツも洗いたいが、洗ったところで干せる気がしない。


「翔と何かあった? 家でめっちゃ荒れたらしい」

「……ひどいこと言った」


 意識がもうろうとしていたとしても、言ってはいけないことを言った。

 取り消したいけれど、一度口から出た言葉は、取り消せない。


 玄関に腰を掛けて、何があったのかただ静かに聞いてくれる菜美に、言葉がとぎれとぎれにこぼれる。


「適当にやれって言われて。翔は、ここがそんなに好きじゃないのかなって思っちゃって」

「好きじゃなかったら、残ってないと思う」


 菜美はとても悲しそうに笑った。


「一度ここを出てる私が言える立場じゃないんだけどね」

「裏切られたって思ったんだ。翔にも、この地区の人たちにも。こんなに頑張っているのにって」


 初めての町内の行事で、翔がいれば心強いと期待したのも、翔はあの日は空いていたと知って悲しかったのも、海人の勝手だ。

 一人で空回りしていただけと分かって、乾いた笑いしか出ない。


「上手くいかない」

「しんどいね」


 思うようにいかないことが重なって、心が折れそうだ。

 けれど、だからと言って、翔を傷つけていいわけじゃない。


「出ていけばいいのに、って言っちゃった」

「それは……」

「怒って当然だよ」


 大切にしているものを否定した。

 仕事に、家の田んぼに、町内のこと。翔は全部を責任を持ってやろうとしている。その重圧は、海人には分からない。


「翔は、海人が来てうれしかったと思う。一緒にやっていけるんじゃないかって、期待してたんじゃないかな」

「それを僕が、自分で壊した」


 胸のうちに苦いものがあふれて、息が吸えない。どうして、あんなにひどいことを言ってしまったのだろう。


「夕方、謝りに行く」

「頑張れ」

「来てくれて、ありがと。おばあちゃんにもお礼を伝えて」


 海人が倒れたと知って、たくさんの料理を菜美に持たせてくれた。折れそうだった心が、柔らかく支えられている。

 彼女の中で、海人はどれだけ腹ペコなのだろうか、と笑いがこみあげる。

 同意するように、畑のオクラの葉が風に揺れた。

 まだ笑えているから、大丈夫。



 その日の夕方、翔の家に行く前に、百間川の土手に上った。なんとなく、川が見たくなった。

 海人の影が、河川敷の公園に落ちている。その先の川は、いつもと変わらず静かに流れていた。


 翔の家に行くと、翔の父がいた。いつも会社で遅いと聞いていたので、驚きすぎて挙動不審になってしまう。


「海人くん、昨日は無理させてしまったよね」

「ご心配おかけしました。もう大丈夫です。菜美への連絡もありがとうございました。あの、翔は?」

「部屋から出てこないよ。ご飯も食べてない」


 早く帰ってきたのも、きっと翔が荒れているからだ。


「ひどいことを言いました。翔に謝りたくて」

「どうぞ。上がって」


 そういえば、翔の家には初めて入る。

 翔の部屋は、二階にあった。翔の妹が家を出てから、一人で使っているそうだ。仕事も出社はまれで、ここでしていると聞いている。

 ドアをノックしてから、話しかけた。


「翔、昨日はごめん。わざわざ来てくれたのに、ひどいことを言った」


 部屋の中から返事は帰ってこない。


「『翔くんほど動けないな』って言われて」


 彼らにとって海人は、参加していない翔の代替品だった。


「僕は『若いの』とか『都会もん』としか呼んでもらえないのに、うらやましかったんだ。本当にごめんなさい」


 声は届いているはずだ。けれど、中から返事はなかった。


「あら、海人くん、もう帰るの?」

「はい。また来ます」

「ご飯食べていったら?」

「僕がいると翔が気まずいと思うので、帰ります。次の機会にお願いします。美味しいご飯、楽しみにしています」


 断りの言葉はこんなにすらすら出てくるのに、本当に伝えたい言葉は、うまく紡げない。

 帰りながら見上げた夜空は湿気を含んで、星の輪郭をぼやかしている。「夜空が澄んでくると秋を感じる」と菜美が以前言っていたから、秋はまだ遠い。



 海人は、自主的に川掃除を始めた。

 どうしてそこまで意地になっているのかは、海人自身にも分からない。


 朝の川は、思っていたより騒がしい。

 水の音だけではない。どこかから泡が流れてきて、そこに生活の気配が混じっていた。

 昼間の方が、むしろ静かだと海人は気づいた。人の生活が一度引いてしまうと、川はただの流れに戻る。

 田んぼの向こう、白いヘルメットをかぶった子どもたちの列が、流れていく。


「掃除しょうるんか」

「源さん、おはようございます。コロ、おはよう」


 近寄っても逃げず、首の下をなでると体重をかけてくるコロがかわいい。


「お散歩ですか?」

「食事の前にな。無理すんなよ」

「はい。今日はここからあの橋までです」


 源はコロと、家とは反対方向へ歩いていった。このあたりを一周して戻るのだろう。

 網でゴミをすくい上げる。大きな道路の近くは、特にペットボトルが多い。


「おはようございます!」

「おはよう。学校いつまで?」

「今週で終わり!」

「気をつけて、行きいよ」

「はーい」


 庭先で作業をしている人に声をかけられた子どもたちは、もうすぐ夏休みだとはしゃいでいる。

 ランドセルを背負ってスキップしながら姉妹で登校しているが、かつてはこのあたりで一つ登校班があったらしい。

 川掃除の時間が子どもたちの登校時間と重なって、見かけることが多くなった。


「おはようございます!」

「おはよう」


 屈託なく海人にもあいさつした子どもたちは、緑の田んぼのあいだを、学校へ向かっている。

 かつて、翔と菜美も通った道。あの子どもたちに、二人を重ねて想像してみるが、うまくいかない。

 子どもたちの笑い声に答えるように、稲が揺れた。


 この地にしがみついているのは、どちらなのだろう。


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