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第10話 藻引き

 地区の臨時の藻引きの日だ。温度が上がって藻が繁殖してしまい、放置すると田んぼへの引き込み口に詰まる可能性があるので、引き上げるのだ。

 藻に流れを阻害されている水が、淀んで見える。一瞬、泥の川が重なって見えた気がした。


「ほれ、若いもん、頑張れ」

「はい」

「しっかりせー」

「……はい」


 地区での共同管理作業だ。若い人しかいない世帯は農家ではないので、参加するくらいならお金を払って済ませる。農業をしている家は、だいたい年配の男性が参加している。それで、若い参加者は海人のみ、という状況が生まれた。


「今日は翔くんはおらんのか」

「仕事が忙しくて。海人くん、変わるよ」

「翔くんがおってくれると助かるんじゃがなあ」


 この地区で、ただ一人、農業に参加している若者。翔が参加しないと分かった瞬間に広がった落胆は、海人の胸に重くのしかかる。

 海人はさっきから、川に降りて、藻を金属製のムカデで引っかけては、道の上に上げるという作業を繰り返している。しかも川底はコンクリートに藻が繁殖していてすべる。すべてが苦行だ。


「すみません……ちょっと腕があがらなくて」

「若えもんがそんなんでおえまあが」


 都会のもやしと笑ってもらって結構。無理なものは無理。もう腕が上がらない。

 見かねた翔の父親が変わってくれたが、川から上がるのも一苦労だ。道路に上がると、海人はその場に座り込んだ。


「水飲んどけ。熱中症になるぞ」

「ありがとうございます」


 源が気を遣ってくれるが、いまはペットボトルのふたを開けられる気がしない。

 ペットボトルを持ったまま日陰で少し休んでいると、どこかから白い猫が現れて、すぐそばで毛づくろいを始めた。


「若いの、いつまで休んどんなら」

「……はい、いきます」


 仕方なく立ち上がり、海人は翔の父親と変わった。彼が二番目に若いのだ。あとは年配者ばかり。


 なんとか予定されている区間の掃除を終えた。


「よーがんばったな。来年も頼むぞ」

「意外と根性あるのお」


 そう言いながら、バンバンと背中をたたかれるが、それに返事をすることも億劫なほど、海人は疲労困憊だ。

 ふらふらになりながら家に帰ると、海人は勝手口から家に入り、そのまま倒れ込んだ。

 頭が痛い。これは熱中症だ。分かっているが、水道が遠い。


 なんとか長靴を脱ぎ、水道までたどり着いた海人は、蛇口から水をがぶ飲みする。


「……どぶ臭い」


 真水のはずなのに、鼻の中に匂いがこびりついているのか、水も美味しく感じない。風呂に入って全身を洗い流したい。けれどそんな元気もない。

 海人は服を脱いで、そのまま布団に倒れ込んだ。


「おい、海人、生きてるか?」

「……翔?」

「よかった。体調はどうだ? メッセージを送ったのに返事がないから」


 無事を確かめに、家に上がったらしい。

 時計を見ると、すでに夕方だ。昼前に帰ってきて、そのまま寝ていたらしい。

 起き上がるとそれだけで、頭がワングワンと痛む。思わず頭を押さえた手は泥だらけで、シーツも汚れている。


「あたま、いたい」

「熱中症だろう。ちょっと待て、塩水持ってくる」


 翔が台所からコップに塩と砂糖を加えた水を持ってきた。飲むと、からからの身体に水分が染み渡る。


「おいしい」

「それが美味しく感じるってことは、ヤバいんだ。塩分も摂れよ」


 そんなことは知っている。知っていても、できなかったのだ。


「このままじゃ布団に匂いがつくから、風呂入ってこいよ」

「むり」


 返事をするのも面倒なくらい頭が痛いのに、風呂など入りたくない。


「タオル濡らしてきてやるよ」

「仕事は?」

「一昨日やっと終わってさ、昨日は一日寝てた。いやー、よく寝たな」


 その言葉に、心の奥がひどく冷たくなった。

 

 戻ってきた翔は、海人の手を取って、そこに濡れタオルを乗せた。


「まったく、手がかかるな。頑張りすぎだって父さんが言ってたぞ。全部まともに受けんな」

「……」

「お前よりよっぽどじじいどものほうが元気だ」


 動かない海人を見て、翔は濡れタオルで、手についた泥を落としてくれている。


「もうちょっと上手くやれよ」

「できるわけないだろう! 僕がやらなかったら、おじさんが……!」


 自分の叫び声が頭に響いて、海人は布団に倒れ込んだ。

 仕事で大変な翔の分まで頑張らなければと思っていたのに。


「お前、真面目過ぎ」

「翔はここが嫌いなの?」

「は……?」

「いやなら、出ていけばいいのに」


 翔は一瞬黙った。笑いかけようとして、やめた。


「……いつでもここから出ていけるお前が、言うな」


 いままで聞いたこともない低い声だ。

 けれど、出ていかない選択をしているのは翔だ。


「しがみついて、バカみたい。こんな、なにもないとこ」

「お前……」


 海人は布団の上で丸まる。


「翔も、ああなるんだ」

「遊びで農業やってるやつが、ふざけんな!」


 ドアをバンと締めて、翔は家から出ていった。

 今日は、カエルの鳴き声が聞こえない。

 畳に落ちた濡れタオルを見ながら、けれど手を伸ばすのも面倒で、海人はそのまま眠りについた。


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