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第1話 夜勤のチンピラ

第一話


夜勤のチンピラ


「……暇ね」


九条ホオズキは言った。


ヤタガラス本部。


午前十一時十三分。


机の上には三つのファイル、二つの契約書、一つの請求書。


そして、飲みかけのコーヒー。


ホオズキはその全部を、心底つまらなそうな顔で眺めていた。


「いいことじゃないですか」


向かいの机から篠宮レイナが答える。


「東京で首を噛まれて死ぬ人が減ってるんですから」


「それはそうなんだけど」


ホオズキは椅子の背にもたれた。


「平和って、書類が多いのよ」


「戦争でも書類は多いですよ」


榊原宗一郎が即座に言った。


「むしろ増えます」


「夢がないわね」


「PMCの経営に夢を求めないでください」


床では、少佐が丸くなっていた。


猫である。


この会社で最も危機感がなく、最も勤務態度が悪く、そして誰にも叱られない職員だった。


久世冬馬は端末を眺めながら笑った。


「いいじゃないですか。しばらく普通の警備会社っぽいことしましょうよ」


「普通の警備会社は対吸血鬼用UV投光器を十二台も倉庫に置かない」


神代蓮司が言った。


「銀弾もな」


真壁仁が付け足す。


「請求書見ました?」


レイナが顔をしかめた。


「銀、高いんですよ」


「だから撃つ時はよく狙え」


「そういう問題ですか?」


誰かが笑った。


それは久しぶりに聞く、普通の笑い声だった。


アウレリア事件から数週間。


ヤタガラスは、一応の平穏を取り戻していた。


警察との連絡経路は残された。


黒崎剛士からは定期的に情報が入る。


不審死。


失踪。


血液製剤の盗難。


夜間病院への侵入。


墓地荒らし。


家畜の大量死。


以前なら無関係として処理されていた情報までが、一度ヤタガラスの分析網を通るようになっていた。


だが。


ここ十日間、


吸血鬼によるものと断定できる事件は、ゼロ。


「地下に潜ったんでしょうね」


アカネが言った。


「アウレリア派も、さすがに派手にやりすぎた」


「学習したなら結構」


ホオズキはコーヒーを飲んだ。


「次に出てきた時は話が早いわ」


その時だった。


冬馬の端末が鳴った。


一回。


二回。


三回。


表示を見た冬馬の顔から、笑みが消える。


「……黒崎警視」


ホオズキが椅子を戻した。


「出して」


スピーカーに切り替わる。


『九条か』


「何?」


『面倒事だ』


「いつものことね」


『今回は、お前ら向きだ』


室内の空気が変わった。


榊原が立ち上がる。


レイナが別端末を起動。


蓮司と真壁はもう装備庫へ向かっていた。


ホオズキだけが座ったまま尋ねた。


「死者は?」


『今のところゼロ』


「じゃあ吸血鬼じゃないんじゃない?」


『人間が片手で百十キロの男を三メートル投げ飛ばせるならな』


一秒。


「場所は?」


『新宿。ライブハウスだ』


     *


店の名前は《GRAVE》。


地下二階。


収容人数約三百。


ゴシック、パンク、インダストリアル系のイベントを中心に営業しているライブハウスだった。


事件が起きたのは午前二時十四分。


閉店後。


店内に残っていたスタッフと客の間で揉め事が発生。


その最中、五人組の男が乱入した。


全員が大柄。


全員が派手なパンクファッション。


そして全員が、


異常に強かった。


「これ」


移動中の車内で冬馬が映像を出した。


防犯カメラ。


黒いノイズの中。


革ジャン姿の男が一人の警備員を掴む。


持ち上げる。


投げる。


警備員の身体がテーブルを越え、壁に叩きつけられた。


レイナが眉を寄せる。


「……CGじゃないですよね」


「警察が元データ押収済み。加工なし」


次の映像。


別の男が金属製の椅子を蹴る。


脚が折れる。


その隣。


巨大な男がいた。


二メートル近い。


あるいは、それ以上。


首が太い。


肩幅が異常に広い。


胸板は革ジャン越しでも分かるほど分厚く、腕は普通の人間の脚ほどある。


長い牙。


無数のピアス。


黒い革。


鎖。


パンクファッション。


男は天井の防犯カメラに気づいた。


映像の中で顔を上げる。


カメラを見る。


ニヤリと笑う。


そして。


中指を立てた。


沈黙。


ホオズキが言った。


「……バカなの?」


冬馬が肩をすくめる。


「そこなんですよね」


「吸血鬼でしょう?」


「ほぼ間違いなく」


「なんでカメラに喧嘩売ってるの?」


「本人に聞いてください」


さらに映像が切り替わった。


五人が店を出る。


路上には、一台の車が停まっていた。


黒。


車高が低い。


ホイールは巨大。


吸気口とエアロパーツをこれでもかと追加した、見るからに騒々しい改造車。


真壁がぼそりと言った。


「趣味悪いな」


「ナンバーは?」


榊原。


「偽造です。ただし車種と改造内容から追えました」


冬馬が地図を出す。


赤い点。


「現在地、新宿区北側。移動中」


ホオズキは少し考えた。


「……本当に吸血鬼?」


レイナが振り返る。


「そこ疑います?」


「だって前の連中、もっとこう……陰謀とか血統とか古代の掟とか、いちいち重かったじゃない」


「比較対象がおかしいんですよ」


「こいつら、ただのチンピラじゃない」


誰も否定しなかった。


     *


黒い改造車は、高架下に停まっていた。


エンジンはかかったまま。


低い排気音がコンクリートに反響している。


ヤタガラスの車両が距離を置いて停車した。


「対象五」


榊原が確認する。


「民間人なし」


「警察は?」


「外周封鎖。黒崎警視の判断でこちらが先行」


「ありがたいわね」


ホオズキは拳銃を確認した。


通常弾ではない。


銀を含む特殊弾頭。


腰には刀。


無線。


UVライト。


数週間前まで存在すら信じていなかった怪物を殺すための装備が、もう当然のように装着されている。


人間は慣れる。


戦争にも。


怪物にも。


ホオズキが車を降りた。


足音。


高架の向こう。


五つの影。


「おー」


その中央。


巨大な男が振り返った。


映像で見た男だ。


近くで見ると、さらにデカい。


屈強な体格。


腕は丸太のように太く、胸板は鎧のように盛り上がっている。


金属のアクセサリーが歩くたびに鳴った。


その男が、


満面の笑みを浮かべた。


「来た来た来た」


ホオズキが立ち止まる。


「……何が?」


「ヤタガラス」


男は嬉しそうに言った。


「お前らだろ?」


後ろの四人が笑った。


レイナが小声で言う。


「知ってますね、こっちを」


「有名になったものね」


ホオズキは巨大な男を見る。


「名前」


男は自分の胸を親指で指した。


「ジャック」


「名字」


「ねえ」


「所属」


「言わねえ」


「目的」


「遊び」


ホオズキは数秒黙った。


「やっぱりチンピラじゃない」


「誰がチンピラだ!」


初めてジャックが怒った。


「俺は営業部長だ!」


沈黙。


冬馬の声が無線から聞こえた。


『……会社員?』


ホオズキは額を押さえた。


「吸血鬼の?」


「そうだ」


「何の営業よ」


「いろいろだ」


「名刺ある?」


「今日は切らしてる」


「じゃあチンピラでいいわ」


「よくねえ!」


その瞬間。


ジャックが消えた。


正確には、


そう見えた。


アスファルトが鳴る。


一歩。


二十メートル近い距離が消える。


「――!」


ホオズキが横へ跳ぶ。


直後。


巨大な拳が、彼女のいた空間を通過した。


風圧。


後方の車体が揺れる。


ホオズキは着地と同時に抜いた。


発砲。


二発。


ジャックの肩と腹部。


着弾。


血。


だが止まらない。


「ハッ!」


ジャックが笑う。


ホオズキの顔面へ拳。


ホオズキは身を沈める。


拳が髪をかすめた。


そのまま懐へ。


刀が走る。


ジャックの脇腹が裂ける。


黒い血。


だが。


傷口が、


閉じていく。


「やっぱ吸血鬼か」


「今さらかよ!」


「一応確認」


背後で銃声。


レイナ。


蓮司。


真壁。


残る四体との戦闘が始まっていた。


高架下に発砲音が連続する。


銀弾。


紫外線。


怒号。


金属音。


一体が車を蹴る。


ボンネットが潰れる。


真壁が叫んだ。


「おい!」


「自分の車じゃないでしょ!」


「車がかわいそうだろ!」


「そこ!?」


ホオズキはジャックの腕をかわす。


速い。


強い。


だが。


アウレリアの配下とは違う。


洗練されていない。


戦い方が荒い。


力任せ。


喧嘩慣れした人間が、そのまま人間離れした身体能力を手に入れたような戦闘。


だからこそ読みやすい。


三撃目。


ホオズキは踏み込んだ。


ジャックの手首を外へ流す。


脇腹。


膝。


顎。


拳銃のグリップ。


最後に刀。


ジャックが大きく後退した。


「いってぇな!」


「だったら帰りなさい」


「やだね」


「なんでよ」


ジャックは血のついた口元を拭った。


そして、


笑った。


妙だった。


負けそうな男の顔ではない。


勝とうとしている男の顔でもない。


まるで。


何かを確かめている。


「……お前」


ホオズキが目を細める。


ジャックの笑みが、ほんの少し変わった。


「何?」


「私たちと戦いたかったの?」


「さあな」


「事件を起こして、防犯カメラに顔を晒して、逃げる気もなくこんな所で待ってた」


「偶然だろ」


「中指まで立てて?」


「あれは趣味」


「最悪ね」


ジャックがまた笑った。


遠くからサイレン。


一台。


二台。


複数。


ジャックは音を聞いた。


腕時計を見る。


ほんの一瞬。


それを、


ホオズキは見逃さなかった。


「……撤収!」


ジャックが叫んだ。


「は?」


四人の吸血鬼が即座に戦闘をやめた。


動きが揃っている。


チンピラにしては、


妙に揃いすぎていた。


一体が閃光弾のようなものを投げる。


白。


ホオズキが腕で目を覆う。


その数秒。


エンジン音。


「逃がすな!」


レイナが撃つ。


リアガラスが砕ける。


しかし改造車は急加速し、高架下を抜けていく。


蓮司が銃を下ろした。


「追うか」


「いや」


ホオズキが言った。


視線は逃げていくテールランプ。


「追跡班に回して」


「いいの?」


「いい」


ホオズキは刀についた血を払った。


地面。


血液。


薬莢。


タイヤ痕。


情報はいくらでも残っている。


それより。


気になることがあった。


「冬馬」


『はい』


「私たち、通報から現着まで何分?」


『黒崎警視からの連絡を基準にすると十一分四十二秒』


「警察は?」


『最初のパトカーが外周到着するまで十九分弱』


「救急」


『二十一分』


「この場所を特定した時間」


『黒崎警視の連絡から七分二十秒』


ホオズキは黙った。


榊原が彼女を見る。


「どうしました」


「……いや」


高架の闇を見る。


もう車は見えない。


「考えすぎならいいんだけど」


レイナが近づく。


「何がです?」


ホオズキは答えなかった。


代わりに。


路面へ視線を落とした。


そこには、ジャックが落としていった血がある。


証拠。


DNA。


吸血鬼の組織情報。


何かが掴めるかもしれない。


それなのに。


妙な感じがする。


こちらが相手を調べているのではない。


まるで――


調べられたのは、こちらの方だったような。


     *


午前三時十二分。


東京。


場所不明。


暗い部屋に、


無数の画面が浮かんでいた。


ライブハウス。


交差点。


高速道路。


コンビニ。


駐車場。


ビル入口。


救急車。


警察車両。


ヤタガラスの車。


どれも、


どこにでもある監視映像だった。


女が一人、


画面の前に座っていた。


ミレイユ・ヴァイス。


外見だけなら二十代後半。


静かな顔。


感情の起伏をほとんど感じさせない瞳。


かつてネットワーク技術者だった女は、画面の一つを停止した。


九条ホオズキが車を降りる瞬間。


時刻。


02:41:17。


別画面。


警察車両。


02:49:06。


別画面。


救急。


02:51:39。


その横に文字列が並ぶ。


《通報》


《警察内部連絡》


《黒崎剛士》


《ヤタガラス》


《出動》


《車両選択》


《移動経路》


《現場到着》


《戦闘開始》


《警察外周形成》


《救急進入》


秒単位。


ミレイユは一つずつ記録していく。


扉が開いた。


ジャックが入ってきた。


服は破れ、


腹には刀傷。


「ただいま」


「三分四十一秒遅い」


「第一声それ?」


「そう」


「ホオズキって女、結構つええぞ」


「知ってる」


「撃たれた」


「映像で見ていた」


「斬られた」


「それも見ていた」


「心配とかない?」


ミレイユは振り返らなかった。


「死んでない」


「冷てえ女」


ジャックは冷蔵庫を開けた。


血液パックを取り出す。


「で?」


封を切る。


「どうだった?」


ミレイユの指が止まった。


画面には、


ヤタガラス本部から現場までの経路が表示されている。


使用車両。


人員。


装備。


警察との連携。


救急への連絡。


防犯カメラに映った移動。


道路上の各種センサー。


SNSに投稿された「銃声がした」という書き込み。


近隣住民の投稿。


タクシーのドライブレコーダー。


事件そのものではない。


事件の周囲に残された、


無数の痕跡。


ミレイユはそれらを眺めた。


ヤタガラスのネットワークには、


一度も侵入していない。


必要がないからだ。


人間は移動する。


通信する。


買う。


撮られる。


投稿する。


助けを呼ぶ。


現代では、


秘密を守ることと、


痕跡を残さないことは、


まったく別の問題だった。


ジャックが血液を飲みながら尋ねた。


「次どうする?」


ミレイユは、


九条ホオズキの静止画を見つめた。


そして、


小さく言った。


「だいたい分かった」


「何が?」


ミレイユは答えなかった。


新しいウィンドウを開く。


そこには、


別の吸血鬼の顔写真が表示された。


アウレリア・セレスティンの勢力。


事件後、


地下へ逃れた残党。


一人。


二人。


三人。


所在不明。


ジャックが画面を見る。


「そいつら、どうすんの?」


「何もしない」


「は?」


ミレイユは次の画面を開く。


九条ホオズキ。


榊原宗一郎。


御影紗夜。


篠宮レイナ。


久世冬馬。


神代蓮司。


真壁仁。


一条寺アカネ。


そして、


警視庁。


黒崎剛士。


人物と組織を結ぶ線が、


画面の上にゆっくりと描かれていった。


「私たちが始末する必要はない」


ミレイユは言った。


「できる人間に教えればいい」


ジャックが数秒考えた。


やがて、


牙を見せて笑った。


「悪い女だな」


「効率の話をしているだけ」


外では、


夜明け前の東京が動き始めていた。


始発列車。


配送車。


清掃員。


新聞配達。


二十四時間営業の店。


サーバー。


監視カメラ。


スマートフォン。


位置情報。


決済記録。


通信記録。


誰も彼も、


自分の一日を始めていく。


そして。


そのすべてが、


何かを記録していた。


昔、


怪物は闇に隠れた。


人間は、


夜には何も見えないと思っていた。


だが二十一世紀。


夜はもう、


暗闇ではない。


カメラが見ている。


端末が覚えている。


サーバーが保存している。


人間が忘れても、


データは忘れない。


――夜は、ログを残す。


第一話 「夜勤のチンピラ」 了

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