2.
「ハイジ、あんたもそろそろ結婚したいだろ?」
ある日、急に母親がそう言ったのでアーデルハイトは驚きました。
「えっ?」
「女の子の結婚は早い方がいいからねえ。持参金も多くもらえるし」
(そ、そうなのかな……?)
アーデルハイトにはよく分かりませんでした。
(でも、いつもお母さんは男とは仲良くするな、なるべくなら話もするな、そんな安い女にはなるな、って言ってたのに……?)
実際、アーデルハイトの母親は常々彼女にこう言って聞かせていたのです。
「いいかい?男はみんなケダモノだ。すぐに女を自分のものにしたり孕ませようと考えたりする。それなのに、飽きたらすぐ捨てるのさ。そのくせ、自分たちが捨てられる側だとは全く思っちゃいない。同じことをされたら烈火の如くに怒るくせにね。だから必要な時以外では、どんな男とも話してはいけないよ」
「はーい」
何度も聞かされた話でしたから、アーデルハイトはいつも聞き流していました。でも、彼女はその言葉をしっかり記憶していたのです。
(お母さんなら問題がなさそうな人を見抜けるってことなのかな……?)
その教えのおかげか、アーデルハイトはこれまで、様々な危機を回避していましたから。
5歳の頃、アーデルハイトは買い物中母親に言われ、ベンチに座ってその帰りを待っていました。
「ここから動いちゃいけないよ。誰が来てもね」
母親がそう言ったので、アーデルハイトは3時間ほど、そこに座って待っていたのです。そんな時、大きな黒い影がアーデルハイトに近づいて来ました。
「お嬢ちゃん可愛いね。飴をあげるからこっちにおいで」
そう言ってきたのはまだ成人したばかりの狼族の男でした。
「いやよ。私、お母さんを待ってるんだもの」
「そんなこと言う悪い子にはお仕置きだ!」
男はにこやかに笑いながら手をわきわきと怪しく動かし、覆い被さるようにアーデルハイトに近づいてきたのです。でも、男のこめかみは少しピクピク動いていました。
「うわーん!お母さーん!」
アーデルハイトが大声で泣き出すと、周囲は何事かと振り返りました。そこにいたのは明らかに不自然な組み合わせ。狼族の男とリス族の幼子です。
「あんた何してんだい?」
「どうした?」
「い、いやあ……小さい子が1人で居るもんだから、可哀想だと思って飴をあげようと……」
狼族の男は周囲に飴の袋を見せました。
それは最近流行りのレモンキャンディーで、確かに子どもに好まれそうな美味しそうな飴だったのです。
「なんだい、あんたいい男だね」
「坊主、気が利くなあ」
近づいて来た周囲はそう言って男を褒め称えました。その時、ちょうどアーデルハイトの母親が戻って来ました。
「ハイジ!あんた何かやったのかい!?」
「ううん」
「そうなんですよ奥さん!飴をあげようとしたら、この子に大声で泣かれちゃって」
狼族の男は困った顔でそう言いました。
「なんだいハイジ。こんな優しい人を見て大声で泣くなんて!失礼な子だね!」
「ごめんなさい……」
アーデルハイトが謝ると、狼族の男はニヤリと笑いました。
「ほんと、きちんと家で教育しといてくださいよ。驚いたなあ。これじゃあ、おちおち声もかけられませんよ」
「本当にすまないねえ。これで許しておくれよ」
アーデルハイトの母親はその男に買って来たばかりの林檎を1つ渡すと、男はどこかへ去って行きました。
「ほら、早く帰るよ!」
アーデルハイトは、そのまま母親に引きずらられるようにして帰りました。
「なんで泣いたんだ!私がみんなの前で恥をかいたじゃないか!外では大人しくしといとくれ!」
「ごめんなさい……」
「そんな悪い子は夕飯は抜きだよ!部屋の隅で反省しときな!」
「はい……」
「ったく、育ててやってるのに感謝もしないで……。もう1人産まれるってのに金がかかるばっかりだよ」
その日、アーデルハイトの夕飯はありませんでした。
(お母さんのお腹には赤ちゃんがいるもの……。私がちゃんとしなきゃなんだ……)
アーデルハイトに父親はいません。でも、アーデルハイトは不思議に思ったこともありませんでした。
だって物心つく頃から、そんなものいませんでしたから。
7歳の頃、また似たような出来事がありました。
「青空教室とかいうものをやってるらしい。そこでお菓子が貰えるらしいよ!今日から昼間はそこに行ってきな!私は忙しいからね!」
母親は確かに忙しそうでした。昼間はアーデルハイトと弟のサンサーノを家に置いて出かけ、夜ご飯を作るとすぐにまたどこかへ行っていましたから。
だから、アーデルハイトは素直にサンサーノを連れ、その教室に行きました。
「ん?君、その子はどうしたの?」
「弟よ。この子の分のお菓子もくれる?」
「勿論だよ」
その青空教室には3人の先生がいるようでした。アーデルハイトはサンサーノをあやしながらそこに毎日通ったのです。
3人の中でも、よくアーデルハイトに声をかけてきていたのが40歳ほどの犬族の男、クンリュートでした。クンリュートはいつも優しく、常にアーデルハイトを気遣っていました。
彼には妻子がいたため、幼子の扱い方をよく分かっていたのかもしれません。
「アーデルハイト君、いつもお菓子は足りてるかい?」
「もう少し欲しい。サンサーノはお腹が空くと泣いちゃうの」
「じゃあ、ちょっとサンサーノを置いて私の膝の上においで」
「いやよ。私、お母さんに、男とはくっつくな、っていつも言われてるんだもの」
「おや、そうかい?でもそれじゃあお菓子はあげられないなー」
「嘘つき!」
アーデルハイトが叫ぶと、他の2人の先生が何事かと近くにやってきました。
「クンリュート先生、どうした?」
「アーデルハイトちゃん、どうしたのかしら?」
「お菓子をくれるって言ったのに!くれないの!」
「ん?どういうことだね?」
「お菓子は1日1人1つよ。アーデルハイトちゃん」
「そうなんですよ。私もそれを言って聞かせていたのですが、この子がどうしてもお菓子をもっと欲しいと言って聞かなくて……」
「そんなことない!嘘つき!」
「こう言われる始末で、手に負えなくて……」
「アーデルハイト君は確か母親がアレだからなあ」
「家ではあまり食べられてないのかも……。貧困だと心も荒むと言うから……」
アーデルハイトは結局その日、追加のお菓子を貰えませんでした。
こんなことが続きましたから、アーデルハイトは段々母親以外が怖くなっていったのです。
(みーんな嘘つきだなあ。嘘ついてもいいんだ。私が本当のことを言っても、褒められるのはいつも嘘をついてる方だもの。自分のためには嘘は沢山ついた方がいいのかな?)
その頃、母親は金回りが良かったのか終始ご機嫌でしたから、アーデルハイトもあまりお腹が空かずにすみました。それに、青空教室での話を母親に聞かれることもありませんでしたから、母親に怒られて夕飯を貰えなくなるなんてこともありませんでした。
(そういえば……サンサーノは男だから、サンサーノともあまりくっつかない方がいいのかも)
ふとそう思ったアーデルハイトは、それからサンサーノの世話もあまりしなくなりました。
必要な時に必要なお世話はしましたが、遊ぼうと言われても、なるべく無視することにしたのです。それに、その代わり家のことはきちんとしましたから、アーデルハイトの母親は大喜びでした。
「ほんと、最近のハイジはきちんといい子に育ってくれて助かるねえ。私の育て方が良かったんだね」
褒められて嬉しいアーデルハイトは、ますます積極的に家事をするようになりました。
(こりゃ結構いい値で嫁に出せるかもねえ。私に似てそれなりに美人だし、家事も積極的にやるし、子育て経験もある。どこに掛け合おうかね……)
母親がこんなことを考えているとも知らずに。




