第5話 これで、合ってる?
『誰かが悲鳴を挙げた時点で、僕の負けでどうかな』
王子の発言に――
ある者は、両手で声帯を守った。
隣の者は耳の穴を塞ぎ、
向かいの者は血が出るほど唇を噛み締めた。
耐えきれず目を瞑る者もいたが、
ほぼ全員がノクスの動向に注目していた。
彼女が動かしたのは、人差し指一本。
――そして、間の抜けた一言。
次に会場を包んだのは、
ぴちゃ、
ぴちゃ、
と、湿った水音だけ。
『……そう来たか』
唯一の第三者――アルシオスだけが、モニター越しに目を細めた。
心なしか、
少し楽しんでいるように見える。
((( どういう状況だ、これ…… )))
会場にいるノクス以外の誰も、
現状を理解できずにいた。
水音の中に、
はあ、はあ、と荒い息遣いが混ざっていく。
苦しいのに――これがやめられない。
((( どうして…… )))
――指、しゃぶってんだ?
きっかけは、ノクスの言葉。
「じゃ、指咥えて見ててねー」
その瞬間。
会場にいた全員が、
狂ったように自身の親指へ――噛みついた。
震えながら。
涙を流しながら。
まるで、赤子のように。
悲鳴を上げようとするたび、
歯が深く食い込む。
「ふっ、は……はぁ」
おしゃぶり、なんて可愛いものじゃない。
口内に鉄の錆びた味が広がる。
耐えきれず、
口の端から唾液が顎先を伝った。
「はい、お利口さん」
ノクスが、
そのまま指を回す。
空中でゆるく二、三回円を描くと、
観客席へ放り投げるようなジェスチャーをした。
まるで気まぐれのように、
あちこちへそれを放る。
風を感じた、瞬間。
((( ……え? 今―― )))
人質の手足を拘束していたロープが、
音を立てて床へ落ちていく。
当人たちも唖然とした様子で、
風の流れを目で追った。
そのうち何人かが、
かろうじて光の軌道を捉える。
それが魔術だと気づく前に、
ノクスが軽く手を叩いた。
「じゃ、そのまま出口まで歩いてねー」
その瞬間――
観客たちが一斉に立ち上がる。
気づけば拘束はすべて外れていた。
指を咥えたまま、
蟻のように列になる。
泣きながら。
震えながら。
それでも整然と、
誰ともぶつからず。
最短距離で出口へ向かっていく。
――狂ってる。
それを悠然と見守るアルシオスも。
当然のようにそれを遂行するノクスも。
――本当に、劣等生なのか?
誰ひとりそれを口にできないまま、
人質たちはスタジアムの出口へと消えていった。
「あ、テロリストさんはこっちねー」
ようやく、
ノクスがテロリストたちへ目を向ける。
彼らもまた、
懸命に親指へしゃぶりついていた。
けれど、
口の端から流れるのは鮮血ではなく――ただの唾液。
(……なんだ、その程度か)
指一本、差し出す覚悟もないのに。
――テロリストが聞いて呆れる。
人質の流れに逆らい、
テロリストたちは自然とノクスの周囲へ集まっていく。
――まるで、
処刑台へ向かう罪人のように。
「……噛み切ってないんだ」
恐怖の元凶が、
周囲を見回して少し残念そうに呟く。
そこで初めて、
自分の親指へ刺さる透明な糸が見えた。
(……いつの間に?)
全ての糸が、
ノクスを起点に伸びている。
詠唱はない。
大きな動作すらない。
それなのに。
この場にいる全ての人間の指先へ。
寸分の狂いもなく。
「切れば外れたのに」
その場の空気が凍りつく。
当たり前のような口調だった。
誰も言葉を返せない。
((( いや、無理だろ…… )))
ノクスが初めて糸を引いた。
瞬間――
テロリストの身体が崩れる。
立ち上がろうとするが、
踏ん張りが効かない。
靴と靴下の境目。
そこに、
狙い澄ましたような深い切り傷が走っていた。
「逃げられると面倒だから、切っちゃった」
主語はない。
けれど意味は十分伝わったらしい。
顔を蒼白にさせ、
若いテロリストが涙を溢す。
ノクスは主犯の男へ近づいた。
その場にしゃがみ込み、
視線を合わせる。
「えっと、なんだっけ? 何聞けばいいの?」
ノクスがモニターへ目を向ける。
『一応、目的かな』
王子が小さく息を吐いた。
「目的? “アンダー・リム”引き渡せってやつじゃないの?」
『うん。その理由を聞いてほしいな』
「だって」
親指を咥えたまま、
男がもごもごと何かを喋る。
「……悲鳴って、口開けなきゃセーフ?」
『セーフでいいよ』
ノクスが指先を声帯へかざす。
すると、
男の声だけが鮮明に響いた。
「“アンダー・リム”に、助けを求めに来た」
「助け?」
思わず聞き返す。
「現在確認されている"二つ名持ち"の中で、
特定の国籍を有するのは――あの化け物のみ」
そうなんだ?
「我が国は現在、宣戦布告を受けている。
アンノウンの介入が期待できない以上、強い術師が欲しい」
……戦争、するってこと?
思わず、
あくびを噛み殺す。
『アンノウンは世界維持のために動く。
貴君ら程の国が動けば、
介入は免れないと思うが』
「……相手が、国ならな」
男の声が低くなる。
「相手は――“二つ名持ち”」
アルシオスの眉が動いた。
その瞬間。
会場の空気が、
初めて“テロ”ではなく、
“戦争”へ変わった。
「……ふぁ」
だめだ。
我慢できない。
「眠いから、先帰るね」
指を引く。
その瞬間。
テロリストたちの身体が宙へ浮いた。
全員が両手を広げ、
磔にされたように吊り上げられる。
パンッ。
軽く手を叩く。
すると、
スタジアムを覆っていた幾重もの結界が砕けた。
ガラスのような破片となって、
空から降り注ぐ。
――まるで、
神の祝福のように。
「じゃ、後は警備の人よろしくー」
結界の破片が、
寸分違わずテロリストたちの皮膚だけを裂いていく。
深くはない。
けれど。
一片残らず急所を外したその精度に、
誰もが息を呑んだ。
だが、
彼女には届かない。
破片は触れる前に砂のように崩れ、
風に乗って流れていく。
ノクスは気にも留めず、
空を見上げた。
「……神様」
返事はない。
少しだけ目を細める。
「……これで、合ってる?」
その問いに、
答える者はいなかった。
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