第2話 アスワンの帆舟
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002 アスワンの帆舟
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帆が鳴りました。
布を一度強く張る音です。それから舟が傾いて、わたしは舟べりをつかみました。板が日に焼けて熱くなっています。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。少し驚いただけです」
夫はわたしの隣に座り直しました。傾いたほうへ寄ってくれたので、舟はかえって傾きました。船頭が舟のうしろでこちらを見て、何も言わずに綱を少しゆるめます。舟がまっすぐになりました。
「すみません」
夫は船頭に頭を下げました。船頭は片手を上げただけです。
帆は一枚で三角です。木の舟で、音を立てるものは帆と水しかありません。左手に島が流れていきます。島の中ほどに家がかたまって見えました。
「あの島までが国だったのですね」
「ええ。ここが南の端でした。この先から象牙が下ってきて、ここで止まったそうです」
「ここで積み替えたのですね」
「ええ。この上手に急な流れがあります」
わたしは川上を見ました。水は広くて静かに光っています。急な所はここからは見えません。
「あの話の舟もここを通ったのでしょうか」
「通ったはずです。帰ってきた舟が」
夫は膝の上で指を組みました。
「物語は舟が着いた所から始まります。ワワトの果てに届いた、センムトを過ぎた、と従者が言うのです」
「センムト」
「上手の堰の向こうに島があります。古い名の綴りがそれとよく似ています」
「ではもうすぐ家なのですね」
「もうすぐ家です。そこで従者が昔の話をはじめます。百二十人が乗った舟の話です」
百二十人。わたしは舟の中を見回しました。夫とわたしと船頭で、もういっぱいです。
「大きな舟ですね」
「長さが百二十キュビト、幅が四十です。この舟なら」
夫はへさきからうしろまで目で測って、やめました。
「数えないほうがよさそうです」
「なぜです」
「こちらが心細くなります」
わたしは笑いました。船頭がちらりとこちらを見ます。笑い声は言葉が通じなくても分かるのでしょう。
「乗っていたのは選り抜きの水夫でした。空を見ても陸を見ても、心は獅子より勇ましかった」
夫の声が読むときの調子になっています。目の前に字は無いのにです。
「嵐が来る前にそれを告げることができた、とも書いてあります」
「告げられたのですか」
「ええ」
「それでも舟は沈みました」
夫は少し黙りました。
「沈みました。陸に着く前に、海の上で。助かったのはひとりです」
告げることのできた人たちが、百十九人。
分かっていても間に合わないことがあるのです。
船頭が立ちました。
川上を見ています。わたしもそちらを見ました。さっきまで一面に光っていた水の、遠いところが一筋だけ暗くなっています。その暗い帯がこちらへ寄ってきます。
船頭は何も言いません。綱を手に巻き直して足を開きました。それから夫とわたしを見て、手のひらを下に向けて二度押さえました。
低くしていろ、ということです。
わたしは夫の袖を引いて、いっしょに屈みました。
風が来ました。
帆がふくらんで、舟は傾くかわりに前へ出ました。水が舟べりのすぐ下を走ります。しぶきが頬にかかりました。川の水は思ったより冷たくありません。
夫が屈んだまま、わたしの耳のそばへ顔を寄せました。
「来る前に分かりましたね」
「水の色が変わりました」
「わたくしは見ていませんでした。あの人だけを見ていました」
「わたしは、あの人が見ているほうを見たのです」
夫はうなずきました。うなずいた拍子に帽子が飛びそうになって、片手で押さえています。
風が抜けると、舟はもう岸のそばでした。船頭が帆を落とします。へさきが砂に乗るより先に、綱を持って飛び降りました。
岸には杭が一本立っています。船頭はそこへ綱を回しました。
「木槌を取り、杭を打ち、へさきの綱を陸に置いた」
夫の声は小さくて、船頭には届かなかったでしょう。
「はじまりの言葉です」
「いまのがそれですね」
「綱だけです。杭は誰かがもう打っておいてくれました」
いつ、誰が打ったのでしょう。
船頭が手を出してくれました。わたしはその手を借りて岸へ移りました。固くて乾いた手です。
夫はひとりで降りようとして少しよろけました。船頭が何も言わずに肘を支えます。
「ありがとう」
夫は舟を振り返りました。帆はもう畳まれています。
「乗組は無事に戻りました。欠けた者はありません」
船頭にではなく、川に言ったようでした。




