第1話 「夜の女王」の浮き彫り
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001 「夜の女王」の浮き彫り
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粘土の板です。
抱えられるほどの大きさで、厚みは指三本ぶんほど。その板から、女の人がこちらへ出てきています。
「穴だらけです」
「ええ。粘土に籾殻を混ぜてあるのだそうです。焼くと籾殻だけ燃えて、あとが穴になります」
夫は板の縁に顔を寄せていました。わたしは女の人の足を見ていました。
人の足ではありません。鳥の足です。鉤になった爪でライオンの背をつかんでいます。ライオンは二頭、背中合わせに伏せていて、どちらも痛そうな顔をしていません。
「爪が食いこんでいるのに、おとなしいのですね」
「乗られるのに慣れているのでしょう」
夫が真顔で言うので少し笑ってしまいました。
両脇にはフクロウが一羽ずつ立っています。丸い目がこちらを見ています。女の人の背には翼があって、広げきらずに下ろしてありました。
裸です。けれど頭には角を重ねた冠があり、首には飾りがあり、手首には輪がはまっています。両手は肩の高さに上げて、それぞれに輪と短い棒を持っていました。
「この方はどなたでしょう」
「それが決まっていないのです」
夫は体を起こしました。
「イナンナだという人がいます。姉のエレシュキガルだという人もいます」
「妹か、姉か」
「どちらとも決められないのです。掘り出された場所が分からないので」
「分からない」
「商人の手を経て出てきた板で、土の中のどこにあったのか誰も見ていません」
下りていった妹か、待っていた姉か。
「どこを見て決めるのでしょう」
「足もとのライオンは妹のしるしだそうです。山の模様も、両脇のフクロウも」
「では翼は」
「翼は姉のほうだと言う人がいます。広げきっていないでしょう」
わたしは翼を見ました。肩から下へ、重たそうに垂れています。飛ぶための翼には見えません。足もとではライオンが、妹の名のために伏せています。
「足は妹で、翼は姉」
「一枚の板の上で、二人が引き合っていますね」
わたしは女の人の手の中のものをもう一度見ました。
「歌では、下りていくときに何か手に持っていましたね」
「測り竿と測り縄です。瑠璃の」
「これがそうでしょうか」
「そう読む人もいます。棒と輪、としか言わない人もいます」
「でも門で取られるのでしょう。冠も、首の玉も」
「取られます。一つの門で一つずつ。衣が最後です」
「この方は衣だけがありません」
夫は黙って、冠から足もとまでを目でたどりました。指を折っています。数えているのです。
「冠はある。首の飾りもある。手の物もある。順が合いませんね。衣は七つめの門です」
「では、下りていく途中の人ではないのですね」
「途中の姿ではない。そうなります」
夫は嬉しそうでした。字のほうから確かめられたときの顔です。
わたしは別のことを思い出していました。歌の中の姉の姿です。横たわっていて、肩に亜麻の布が掛かっていない。
「お姉さまも肩に布を掛けていませんでした」
「そうでした。肩に亜麻の布がない、と」
「妹は門で取られて、姉ははじめから掛けていない」
どちらの名で呼んでも、この人の肩には何も掛かっていないことになります。
「腕のあたりに赤が残っています」
「よく見つけましたね。体は赤く塗ってあったそうです。後ろは黒でした」
「黒」
「それも、姉だと言う人の拠りどころです。今は夜の女王と呼ばれています」
赤い体。黒い後ろ。わたしは目を細めて、土の色の上にそれを置いてみました。穴だらけの肌が急に温かくなります。フクロウの丸い目だけが黒の中に残りました。
「どこに置かれていたのでしょう」
「壁にはめこんだ祠のものだろう、という説があります。裏が平らなのだそうです」
「どこの壁でしょう」
「神殿か、誰かの家か。そこは分かりません」
壁に背をつけて、暗がりの中に赤い人が立っている。その前で誰かが手を合わせる。その人はどちらの名を呼んだのでしょう。
「名を呼んだ人には分かっていたのですね」
「ええ。分からなくなったのは、わたくしたちのほうです」
夫はもう一度屈んで、今度は穴ではなく女の人の顔を見ました。
「笑っていますね」
「ええ。少しだけ」
妹でも姉でもかまわない、という顔に見えました。




