第4話 チベットの仏画
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004 チベットの仏画
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見上げました。
人の背丈よりずっと大きな布です。その真ん中で、青黒い体が炎に巻かれて踊っています。頭は水牛でした。目が三つあって、口を開けています。
わたしは半歩さがりました。夫がさがらなかったので、その肩の後ろから見ることにしました。
「怖い顔です」
「怖がらせるための顔だそうです。害をなすものを寄せつけないように」
「では、わたしは害をなすものなのでしょうか」
「あなたは半歩さがっただけです。逃げてはいません」
夫はそう言って、少しだけ体を横にずらしました。見やすいようにです。
頭には髑髏を並べた冠。首から下がっているのは、切られた首をつないだ輪です。足の下には青い牡牛が伏せていて、牡牛の下には女の人が横たわっていました。白い顔で、目をあけています。
「踏まれています」
「踏まれていますね。何のしるしなのかは、わたくしには分かりません」
分からないまま、わたしはその白い顔をしばらく見ていました。
目が慣れてくると、炎の外が見えてきました。緑です。なだらかな丘と、丸い雲。四つの隅と頂にも、小さな人がひとりずつ炎を背負って立っています。
「隅にもいらっしゃいます」
「色の違うヤマだそうです。五人」
「後ろの緑は」
「描いた人たちの土地の景色らしいのです。チベットの東のほうの」
怖い人の後ろに、のどかな丘があります。自分たちの里を描いて、その前にいちばん怖い顔を立たせたのです。
それから、もうひとりに気がつきました。
水牛の頭の人の脇に、小さな青い人がいます。同じ牡牛の背の上で体を寄せて、何かを差し出しています。
「この方が妹ですか」
「ヤミーです。杯を差し出しているのだそうです。髑髏でできた杯を」
「兄さまに」
「兄に」
わたしは歌のほうを思い出していました。あの歌で二人が交わすのは言葉だけです。妹が求めて、兄は終わりまで退けつづけます。
「歌では追い返されましたね」
「十四の節の終わりまで、兄は一度もうなずきません」
「それなのに、ここでは隣にいます」
夫は絵に目を戻しました。妹の手もとから、兄の顔へ。
「隣にいて、差し出していますね」
「兄さまは受け取るのでしょうか」
「そこまでは分かりません。絵は差し出したところで止まっています」
差し出したところで止まっている。歌は退けたところで終わっていました。
夫はしばらく黙っていました。それからゆっくり言いました。
「この絵を掛けた人たちは、あの歌を知らなかったかもしれません。チベットの寺を守るための絵です。歌からは二千年よりもっと後で、土地も教えも違います」
「別の二人なのですね」
「名前だけが同じ二人、と言うほうが正しいのでしょう」
正しいのでしょう。けれど、わたしには同じ二人に見えました。あれだけ言葉を尽くして退けられた妹が、長い時間のあとで、黙って杯を差し出している。追い返す声はどこにも描いてありません。
「炎がまだこんなに赤いのですね」
「石を砕いた絵具だそうです。綿の布に、それと金で描いてあります」
「金」
「どこが金なのか、わたくしには見分けられませんでした。炎の縁でしょうか」
二人で炎の縁を探しました。分かりませんでした。
「長いあいだ誰にも見せられなかった絵だそうです。今ある所へ来たとき、もう傷みがひどかった。布は波を打って、絵具は剥がれ落ちて。直すのに一年半かかっています」
「一年半」
「直し終えるまで、人前に掛けることができなかったそうです」
寺を守るための絵が、守られる側になっていたのです。
わたしはもう一度、小さな青い妹を見ました。炎の中で、兄よりずっと小さく描いてあります。兄と同じ色で、同じ炎の中にいます。
「この方も守っているのですね」
「そうです。兄と一緒に」
一緒に。歌の中で妹が求めて、兄が最後まで言わなかったことです。
わたしは肩の後ろから出て、夫の隣に並びました。もう怖くはありませんでした。




