第3話 七つのパン
━━━━━━━━━━━━━━━━
003 七つのパン
━━━━━━━━━━━━━━━━
「七つめです」
わたしは鉄の鍋から平たいパンをはがして板の端に置きました。湯気が立っています。ほかの六つはもう冷えています。
夫は台所の戸口に立っていました。いつからいたのでしょう。
「気がついていたのですか」
「三日めに」
「何もおっしゃいませんでした」
「七つ揃うのを見たかったのです。途中で口を出したら、あなたは四つでやめたでしょう」
やめたと思います。
夫は板の前に来て、左の端から順に見ていきました。この人は何でも左から読みます。パンもです。
「さわってもいいですか」
「どうぞ。一つめは気をつけてください」
夫は一つめを指で押しました。押せませんでした。爪で叩くと皿のような音がします。
「乾ききっています」
「六日たちましたから」
「歌のとおりです。一つめは乾ききっていた、とあります」
夫は嬉しそうでした。パンが固いことをこんなに喜ぶ人を、わたしはほかに知りません。
「二つめは何と」
「古くなっていた。革のようだ、と読む人もいます」
夫は二つめを両手で曲げようとしました。少しだけ曲がって、それきり動きません。
「革です」
「革ですね」
「三つめが分からないのです。湿っていた、と読むのですが、わたくしはいつもここで止まります」
わたしは三つめを取って夫の手にのせました。
「湿っていますか」
「いいえ。二つめより少し柔らかいだけです」
「パンは置いておくと乾きます。湿りはしません。湿るのは何かをかぶせたときです」
夫は三つめを持ったまま、しばらく黙っていました。
「布をかけたのでしょうか。眠っている人の枕もとですから」
「埃がかからないように」
「食べないパンに」
「食べないパンでも、です」
「あなたならかけますね」
かけます。
「四つめは白くなり、五つめには灰色の黴が生えた、とあります」
「うちのは黴びていません」
「布をかけなかったからですね」
「窓のそばに置きましたから」
夫はうなずいて五つめを板に戻しました。それから少し残念そうに板を眺めました。黴が見たかったのです。
「六つめはまだ新しい。七つめは」
夫は湯気の立っているのを見ました。
「まだ熾の上にあった、と読む人がいます」
「熾ではありません。鍋です」
「鍋ですね。粉は何ですか」
「うちにあった粉です。歌には何と」
「何も書いてありません。粉のことも窯のことも。書いてあるのは、どう古くなったかだけです」
焼き方は書かずに、傷み方だけを書いたのです。
「食べるためのパンではないのですね」
「ええ。数えるためです」
夫は板の端に指を置きました。
「起こしてあげてと頼んだのは奥方でしたね」
「ええ。それを主人が聞きません。人は欺くものだ、だからパンを焼いて枕もとに置け、と言うのです」
「眠っただけの人に」
「眠っていないと言うからです。実際、目を覚ましてそう言いました」
「奥方のお名前は」
「書いてありません」
わたしは六つのパンを見ました。
起こしてあげてと頼んだ人が、起こさずに七日焼いたのです。誰も食べないと分かっているパンを毎日一つずつ。
「奥方は壁に印も付けたのですね」
「付けました」
「わたしは付けませんでした」
「壁ですからね」
「いえ。数えなくても分かりましたから」
夫はこちらを見ました。
「あなたは毎朝起きてきました。七日とも」
「旅に出ませんでしたから」
夫はそう答えて少し笑いました。
その方が毎朝何を見ていたのか、わたしは見てみたかったのです。枕もとのパンが一つずつ増えて、古いほうから固くなっていく。見てみたら、ただのパンでした。固くなるだけです。けれど七日は長いということは、手が覚えました。
夫は七つめを取って二つに割りました。大きいほうをわたしにくれます。
熱くて、塩が少し足りませんでした。
「おいしいです」
「塩が足りません」
「歌に塩のことは書いてありませんから」
夫はそう言って、もう一口食べました。それから一つめを取り上げて、端を噛もうとしています。
「歯が欠けます」
「これだけは確かめられるのです。固さだけは」
噛めませんでした。
「歌のとおりです」
夫は満足そうに、一つめを板に戻しました。




