第3話 洪水の書板
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003 洪水の書板
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夫の唇が動いていました。
声は出ていません。粘土の板の上を目が左から右へ進んで、行の終わりで戻ります。そのたびに唇が少し動くのです。
わたしには小さな楔の形がびっしり押してあるようにしか見えません。両手にのるほどの板で、蜂蜜のような色をしています。縦に一本まっすぐな線が通っていて、楔はその左右に分かれて並んでいました。
「読んでいるのですね」
「読んでいます。すみません、黙って」
「いいえ。どこですか」
「舟が山に止まる所です」
舟が止まる。わたしは楔の列を見ました。どれが舟でどれが山なのか、黙って見ているだけでは分かりません。
「わたしには鳥の足あとに見えます」
「足あと」
「小さな鳥が行儀よく歩いたあとのようです」
夫は板を見直しました。それからゆっくりうなずきました。
「そう見えてきました。困りましたね。読めなくなりそうです」
わたしは笑って、板の縁に目を移しました。左のほうが斜めに大きく欠けています。右の縁にも割れた跡があって、そこだけ土の色が赤く、ざらざらしています。
「割れています」
「ええ。行が途中で切れるのです。読んでいると、そこで足もとが無くなります」
「この字は押してあるのですね。書いたのではなくて」
「そうです。粘土が柔らかいうちに押して、乾かしたのでしょう」
押した跡はどれも同じ向きに頭があります。指の腹で撫でたら、細かい歯のように引っかかるでしょう。触れませんけれど。
「真ん中の線は何でしょう」
「段を分けています。本の頁を二つに割るのと同じに」
「では、これも頁なのですね」
「頁です。めくれない頁です」
夫は自分の言ったことが気に入ったようでした。もう一度、小さな声で繰り返しています。
「歌の、あの板なのですね」
「十一枚めです。ニネヴェのアッシュルバニパル王の書庫にあったものだそうです」
「王さまが読むために」
「読んだのか集めただけなのかは分かりません。何千枚もあったうちの一枚です」
何千枚。わたしは棚にぎっしり並んだ土の板を思いました。重かったでしょう。本の蔵というより、煉瓦の蔵です。
「それが土に埋まったのですね」
「埋まって、二千五百年ほど。掘り出されたあとも、すぐには読めませんでした。汚れが字を覆っていたのです」
「汚れ」
「何日もかけて洗って、やっと字が出てきたそうです」
洗ったら、洪水が出てきた。
口には出しませんでした。夫が続きを話したそうにしていたからです。
「はじめに読んだ人のことを話してもいいですか」
「どうぞ」
「ジョージ・スミスという人です。十四で学校をやめて、お札の版を彫る店の見習いになりました」
「十四で」
「それから昼の休みに通って、この字をひとりで覚えたのだそうです」
「お昼休みに」
「ええ。お昼を食べたのかどうかは、どこにも書いてありませんでした」
調べたのです、この人は。
「それで雇われて、板の整理をしていてこれに行き当たったのです。読めたとき、部屋じゅうを駆け回ったと伝えられています」
夫の声が少し高くなっていました。この人はスミスという人が好きなのです。
「服を脱いだ、という話もあるのですが」
「まあ」
「誰が言い出したのか分かりません。わたくしは信じていません。信じたいのですが」
わたしは笑いました。夫も笑いました。
「欠けた所はどうなったのですか」
「探しに行ったのです。新聞社がお金を出して、ニネヴェまで」
「見つかったのですか」
「着いていくらもたたないうちに見つけました。見つかったのは、舟に荷を積む所の行だったそうです」
舟に積む荷があとから届いたのです。
「けれどスミスはそれから三年ののち、旅先で病にかかって亡くなりました。三十六でした」
わたしは板に目を戻しました。
死なない命を探しに行った王の話です。探して、聞いて、手に入れかけて、帰り道に失くす。その話を二千五百年ぶりに読んだ人が、欠けた続きを探しに行って、見つけて、帰ってこなかった。
「この板は読んだ人を旅に出すのですね」
夫は答えませんでした。板の欠けた縁を見ています。その先にあったはずの行を、目で追っています。
「あなたも読みました」
「読みました」
「行かないでください」
「行きません。欠けた所は、もうスミスが見つけてくれました」
それはよい理由だと思いました。




