目減りする通帳
二〇二八年四月〜五月
四月、工の年俸はまた一万八千円ほど上がった。だが、その頃には、この程度の昇給を喜ぶ感覚そのものが、工の中からほとんど失われていた。給与明細を見ても、以前のような一喜一憂はなく、ただ淡々と、家計簿のエクセルシートに数字を打ち込むだけになっていた。
その代わりに、工が毎月チェックするようになったのは、証券口座の画面だった。NISAで積み立てているオルカンは、この一年で評価額が三割近く増えていた。理由の半分は世界的な株高、もう半分は円安による為替換算の押し上げだった。ドル建てのMMFも、円換算では着実に増えている。
だが、その一方で、円のまま置いてある普通預金の残高は、数字そのものは変わらないのに、買えるものの量が明らかに減っていた。工はある晩、三つの口座の残高を並べて、静かな違和感を覚えた。増えている二つと、目減りしている一つ。同じ「貯金」という言葉でくくられていたものが、まったく違う顔を見せ始めていた。
ゴールデンウィーク明け、工は大学時代の友人、木村隆と久しぶりに飲みに行った。木村は数年前に郊外の一戸建てを購入し、三十五年ローンを組んでいた。
「うちのローン、正直、だいぶ楽になった気がするんだよな」
木村がビールを片手に、意外なことを言った。
「楽に? 金利、上がってるんじゃないのか」
「変動金利だから、そこは正直しんどいよ。でも、給料も物価に合わせて多少は上がってるし、何より、ローンの残高そのものの『重み』が、体感としてすごく軽くなった気がするんだ。組んだときは三千五百万、今の物価で考えたら、当時よりずっと安く借りられた計算になる」
工は、その話を聞きながら、複雑な気持ちになった。木村の言っていることは、感覚としては理解できた。同じ三千五百万円という数字でも、物価が上がれば上がるほど、その「重さ」は相対的に軽くなっていく。
「うちは賃貸だから、そういう恩恵、全然ないんだよな」
工がぽつりと言うと、木村は少し気まずそうな顔をした。
「まあ、その分、家賃はどんどん上がってるもんな。ローン組んでる側は借金が軽くなって、賃貸の側は家賃が重くなる。なんか、不公平な話だよな」
その夜、家に帰った工は、美咲にその話をした。美咲は少し考えてから、家計簿のアプリを開いた。
「うちは持ち家じゃないから、ローンが軽くなるっていう恩恵はないよね。でも、その代わり、NISAとMMFはちゃんと増えてる。もし何もしないで、全部円の貯金のままだったら、今頃どうなってたと思う?」
美咲がそう言って、簡単な試算を見せてくれた。もしあのとき、佐久間家が動かずに、すべてを円のまま貯金し続けていたら。物価上昇率を当てはめて逆算すると、実質的な資産価値は、二年前と比べて二割近く目減りしていた計算になった。
「坂本さんの話を聞いてなかったら、うちも同じことになってたんだね」
工は、その数字を見ながら、複雑な安堵と、同時にある種の怖さを感じていた。自分たちは、たまたま同僚の話を聞き、たまたま行動に移した。だが、同じマンションに住む、あるいは同じ会社で働く人々の中には、まだ何も動かせずにいる家庭も、少なくないはずだった。特に、情報を集める余裕のない世帯、あるいは工が以前の自分がそうだったように「円を疑うこと」への抵抗感を捨てられない世帯は、この一年、静かに資産を目減りさせ続けているのだろうと、工は思った。
その週末、蓮の通う小学校で、保護者向けの説明会があった。議題は給食費と、修学旅行の積立金についてだった。担当の教員が申し訳なさそうに、値上げの説明をした。
「物価上昇に伴い、来年度から、修学旅行の積立額を見直させていただくことになりました」
会場にいた保護者たちの反応は、以前よりずっと落ち着いていた。もはや値上げのニュースに驚く人は少なくなっていた。ただ、隣に座っていた見知らぬ母親が、小さくつぶやいたのが工の耳に入った。
「うちは今年、積立、続けられるかどうか、正直わからないんです」
その言葉の重みが、工の中に静かに残った。佐久間家は、幸運にも、少し早い段階で動くことができた。だが、その「少し早い」の差が、これほど大きな結果の違いを生むことに、工は今さらながら気づかされていた。
帰り道、蓮が無邪気に聞いてきた。
「お父さん、修学旅行、行けるよね?」
「もちろん行けるよ」
工は迷わずそう答えたが、その言葉の裏側で、行けない子供たちのことを、少しだけ考えずにはいられなかった。




