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売られた日本、買ったのは誰だ  作者: 藤一


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数字が語ること

二〇二八年六月


翔子(しょうこ)の元に、ある家計調査データが届いたのは、梅雨入り前のある午後だった。総務省が四半期ごとに公表している家計資産の調査で、いつもなら業界内でも一部の専門家しか目を通さない、地味な統計だった。


だが今回のデータには、翔子の目を引く数字があった。住宅ローンを保有する世帯の実質債務負担率が、この二年でおよそ二割低下している一方、現金・預金中心で資産を保有する世帯の実質資産価値は、同じ期間でおよそ一八パーセント目減りしていた。世代別に見ると、その差はさらに際立った。若い世帯ほど、資産の一部を投資や外貨に振り向ける傾向が強く、実質資産の目減りを一定程度回避できていた。一方、高齢の世帯ほど、資産のほとんどを円建ての預貯金に置いたままで、目減りをまともに受けていた。


翔子は、数ヶ月前に自分が立てた仮説を、あらためて思い出した。政府が意図的か結果的かを問わず、インフレによって債務の実質価値を圧縮しているのではないか、という仮説。目の前の統計は、その仮説を裏付ける、具体的な傍証だった。


翔子はその週、財務省担当の記者から、思いがけない話を聞いた。記者は、匿名を条件に情報をやり取りする間柄の官僚から、こんな話を耳にしたのだという。


「霞が関の中でも、この状況を『仕方のない副作用』と割り切る空気と、『これは事実上の政策だ』と自覚しながら黙っている空気の、両方があるらしいです。誰も表立っては認めませんが」


翔子は、その話を聞きながら、以前読んだ、ある匿名の政策メモの噂を思い出した。財務省の若手官僚が書いたとされるそのメモは、外部には出回っていないはずだったが、業界内では「増税も緊縮も選べない政治が、インフレという第三の道に、なし崩し的に流れ着いている」という趣旨の内容だと、まことしやかに語られていた。


真偽は確かめようがなかった。だが、翔子が自分で積み上げてきたデータと、記者から聞いた話と、業界内の噂。それらはすべて、同じ方向を指し示していた。


翔子は、知人から聞いた、ある家庭の話も思い出していた。都内に住む会社員の家庭で、賃貸暮らしのため住宅ローンの恩恵は受けられないが、早い段階で資産の一部を投資や外貨に振り向けたことで、目減りをある程度防げているという話だった。一方で、同じマンションに住む別の家庭は、行動を起こせないまま、資産を静かに減らし続けているらしい、とも聞いた。


固有名詞までは聞いていなかったが、翔子には、その話が、統計上の数字よりもずっと生々しく響いた。数字の裏には、いつも誰かの生活があるということを、翔子はあらためて実感していた。動けた家庭と、動けなかった家庭。その差は、能力や努力の差というより、たまたま情報が届いたか届かなかったかという、運に近い差でしかなかった。


翔子は、これまで温めてきた仮説と、集めたデータを、レポートとしてまとめる決意を固めた。だが、その内容は、これまでの為替レポートとは、性質がまったく異なるものになる。政府の政策を、事実上の「隠れた債務圧縮策」として指摘することは、金融機関に所属するアナリストとしては、きわめて政治的にセンシティブな行為だった。


上司に相談すると、案の定、難色を示された。


「仲本さんの分析力は信頼している。だが、これは為替予測の範囲を超えている。下手をすれば、政府や当局との関係にも影響が出かねない」


翔子は反論しなかった。だが、退勤後、一人になったオフィスで、彼女は静かにパソコンに向かい、レポートの草稿を書き進めた。タイトルは、あのとき仮に付けた「債務圧縮シナリオ・検証メモ」から、少しだけ言葉を変えた。


「静かなる財政再建――誰がそのコストを払うのか」


書きながら、翔子は自分に問い続けていた。この仮説を公にすることが、パニックを煽るだけの無責任な行為なのか、それとも、声を上げられない人々のために、誰かが言葉にしなければならないことなのか。答えはまだ、はっきりとは出ていなかった。


窓の外では、梅雨の雨が静かに降り続いていた。翔子はキーボードから手を離し、しばらく画面を見つめた。「一ドル百七十円」と書いていた、あの頃の自分の予測の甘さを、彼女はもう何度目かわからないほど思い返していた。


だが同時に、翔子は思っていた。予測を外したこと自体は、恥じるべきことではない。恥じるべきなのは、目の前で起きている構造の変化から、目を逸らし続けることだ。


彼女は再びキーボードに手を置き、レポートの続きを書き始めた。この一文が、どんな波紋を呼ぶことになるのか、翔子自身にも、まだわからなかった。

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