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売られた日本、買ったのは誰だ  作者: 藤一


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静かなる策略

二〇二七年八月


翔子(しょうこ)の元に、プライベートバンキング部門の知人から、ひとつのデータが送られてきたのは、盛夏のある夜だった。国内の富裕層による海外への資産移転額の推計値。数字を見た瞬間、翔子は思わず画面を二度見した。この半年で、前年同期の三倍近い規模に膨れ上がっていた。


移転先はシンガポール、香港、スイス。不動産、未公開株、貴金属。手口は多様化していたが、共通しているのは「円建て資産からの離脱」という一点だった。ある家族経営の企業オーナーは、翔子の知人にこう漏らしたという。


「もう、この国に資産を置いておく理由がない。事業は日本で続けるが、財布は分けておく」


翔子はそのデータを、自分のノートパソコンの隅に保存した。表面的な為替の動きの裏側で、もっと大きな何かが進行している予感が、彼女の中で膨らみ始めていた。


その予感が、はっきりとした輪郭を持ち始めたのは、財政に詳しい大学時代の恩師と、久しぶりに食事をした席でのことだった。恩師は経済学部でマクロ財政を教えており、翔子にとっては今でも意見を仰ぐ数少ない相手の一人だった。


「仲本くん、君は今の政府の動きを、どう見ている」


恩師の問いに、翔子は素直に答えた。利上げが後手に回り続けていること、格下げが起きたこと、円安が止まらないこと。恩師は黙って聞いたあと、静かにこう言った。


「もし私が財務省の人間だったら、と考えることがある。今の日本の債務残高は、GDP比で二百六十パーセントを超えている。これを実質的に減らす方法は、理屈の上では三つしかない。増税、緊縮、そしてインフレだ」


「インフレ、ですか」


「そうだ。名目GDPが増えれば、債務残高の対GDP比率は自動的に下がる。国債の実質価値も、インフレが進めば進むほど目減りする。極端な話、通貨の価値を大きく下げてしまえば、千二百兆円を超える借金の『重さ』は、実質的にずっと軽くなる」


翔子は箸を止めた。頭の中で、これまでばらばらに見えていた事象が、一本の線でつながっていくような感覚があった。小刻みで、効果の薄い利上げ。踏み込んだ介入をためらう財務当局。海外への資産逃避を、実質的に黙認しているとも取れる緩慢な対応。


「先生は、それが……意図的だと思われますか」


恩師は少し困ったような顔をした。


「意図的かどうかは、私にはわからない。政策的な怠慢の結果、たまたまそうなっているだけかもしれない。だが、結果としてこの状況が続けば、政府にとって『都合の良い副作用』が生まれることは事実だ。誰かが積極的にそれを狙っているのか、あるいは誰も止められずにそうなっているだけなのか——正直、外からは区別がつかない」


その夜、翔子は自宅に戻ってからも、恩師の言葉が頭から離れなかった。彼女はノートを開き、これまで集めてきたデータを、あらためて並べ直してみた。


利上げのペース。国債発行残高の推移。インフレ率の予測。そして、富裕層の資産逃避の規模。ひとつひとつは、これまでも見てきた数字だった。だが「政府が意図的に、あるいは結果として、インフレによって債務の実質価値を軽くしようとしている」という仮説を通してもう一度見直すと、まったく違う絵が浮かび上がってきた。


もしこの仮説が正しければ、日銀の利上げが「なぜか毎回中途半端」であることにも説明がつく。本気で円安を止める気があるなら、もっと早く、もっと大胆に動けたはずだ。それをしなかったのは、能力の問題ではなく、動機の問題だったのかもしれない。


だが、この仮説には、翔子をひどく落ち着かない気持ちにさせる、もうひとつの側面があった。


インフレによって実質的に軽くなるのは、国の借金だけではない。住宅ローンを抱える佐久間家のような世帯にとっては、借金の実質的な負担が軽くなるという側面も、確かにある。だが、それと引き換えに、彼らが汗水垂らして貯めてきた現金貯金の価値もまた、同じだけ失われていく。借金は軽くなり、貯金は消える。両者は、同じインフレという現象の、表と裏でしかなかった。


そして、その痛みを最も強く受けるのは、資産を海外に逃がす手段を持たない、ごく普通の人々だった。すでに資産の多くを外貨や海外不動産に移し終えた富裕層は、この痛みからほとんど無傷でいられる。皮肉なことに、円安と国内インフレによって最も守られるのは国の財政であり、最も傷つくのは、その国に最後まで踏みとどまった、ごく普通の家計だった。


翌朝、翔子は上司には報告せず、まず個人的なつながりのある専門家たちに、一人ずつ連絡を取り始めた。財務省出身のエコノミスト、日銀OBの金融政策研究者、そして社会保障政策を専門とする研究者。それぞれに、同じ質問を投げかけた。


「もし今後、意図的か結果的かを問わず、政府がインフレによる債務圧縮という道を選んだ場合、家計への影響はどの程度になると考えられますか」


反応は様々だった。ある元日銀関係者は、電話口で長い沈黙のあと、こう答えた。


「理論的には、十分にあり得るシナリオです。ただし、それを公に議論することは、政治的にも社会的にも、非常に扱いが難しい。もし本当にそうだとしても、政府がそれを認めることは、まずないでしょう」


別の社会保障の研究者は、より直接的な言葉で警鐘を鳴らした。


「もしそのシナリオが現実になれば、最も打撃を受けるのは、貯蓄以外に資産防衛の手段を持たない高齢者と、住宅ローンを組んだばかりの若い世帯の、両極端です。前者は蓄えを失い、後者は名目上の借金の重みだけが軽くなる。世代間でも、資産の有無でも、これまで以上に大きな分断が生まれるはずです」


翔子はそれぞれの発言を、丁寧にノートに書き留めていった。仮説はまだ、確証には至っていない。だが、専門家たちの誰一人として、この仮説を「あり得ない」と一蹴しなかったことが、翔子にとっては、何よりも不気味な兆候だった。


その週末、翔子は珍しく仕事を持ち帰らず、実家の母に電話をかけた。母は年金暮らしで、コツコツと貯めてきた定期預金を、何よりの誇りにしている人だった。


「お母さん、貯金、全部円のままにしてる?」


翔子が尋ねると、母は少し驚いたように答えた。


「そうよ。ずっとそうしてきたじゃない。何かあったの?」


翔子は、うまく説明する言葉を見つけられなかった。まだ確証のない仮説を、母に不安を煽るだけの形で伝えることは、彼女の望むところではなかった。


「ううん、何でもない。ただ、ちょっと相談したいことがあったら、また今度話すね」


電話を切ったあと、翔子はしばらく、暗くなった窓の外を見つめていた。自分がこれから確かめようとしていることは、単なる為替予測の範囲を超えていた。もしこの仮説が本当なら、それは国家が、自国民の資産を静かに差し出すことで、自らの借金を軽くしようとしているという話になる。そんなことを、誰にどう伝えればいいのか、翔子にはまだ、答えが見えていなかった。


彼女は再びノートパソコンを開き、新しいファイルを作った。ファイル名は、まだ仮のものにした。


「債務圧縮シナリオ・検証メモ」


その夜、翔子の調査は、まだ始まったばかりだった。


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