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売られた日本、買ったのは誰だ  作者: 藤一


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二十二万二千円

二〇二八年一月〜二月


引っ越し先を探そうと、美咲は年末の空いた時間を使って不動産サイトを開き続けた。子供が寝たあとの深夜、パソコンの画面の光だけがリビングを照らしていた。だが、探せば探すほど、逃げ場がないことがわかってきた。


同じ沿線の似たような間取りは、軒並み二十万円を超えていた。少し古い物件、駅から遠い物件を検討しても、それほど大きな差は出なかった。もっと郊外まで足を伸ばせば安い物件もあったが、(たくみ)の通勤時間は片道一時間半を超える。蓮の転校も避けられない。美咲は候補を絞り込むたびに、地図アプリで通勤時間と学区を確認し、そのたびにため息をついた。


「結局、どこも同じなんだ」


美咲がノートパソコンを閉じながら言った。声に、諦めに似た響きがあった。ある物件は家賃こそ安かったが、築年数が古く、水回りの写真を見た瞬間に美咲の表情が曇った。別の物件は条件が良かったが、家賃は今と大差なかった。都内で「安くて広くて便利」という組み合わせは、もはや幻に近くなっていた。


工は会社の給与明細を、あらためて開いてみた。四月の昇給で年俸は761万8千円になったばかりだった。手取りに直せば月にして四十五万円ほど。そこから新しい家賃二十二万二千円を引くと、残りは半分を切る。


保育園時代よりも増えた蓮の教育費、上がり続ける食費と光熱費。数字を並べるほど、答えは一つしか出てこなかった。工はノートに、収入と支出をひとつひとつ書き出してみた。家賃、食費、光熱費、通信費、蓮の習い事、保険料。そして最後に「貯蓄」の欄を見て、工はペンを止めた。これまで毎月三万円ほど積み立ててきたその欄が、新しい家賃を当てはめると、マイナスに転じてしまう。


「引っ越すにしても、初期費用だけで軽く百万は飛ぶ。それに、また同じことが起きたら?」


工がつぶやいた言葉に、美咲は何も返さなかった。オーナーがまた変わり、また値上げ通知が届く。その可能性を、二人とも否定できなかった。実際、地域の掲示板には、二度目の値上げ通知を受け取ったという投稿も、すでにいくつか見受けられるようになっていた。


年明け、工は意を決して管理会社との交渉に臨んだ。せめて改定幅を抑えられないか。有給を一日使い、平日の午前中に窓口を訪れた。担当者は前回電話で話した女性だった。


「申し訳ございませんが、オーナー様のご意向でして。これでもかなり抑えた数字だと伺っております。近隣の同水準の物件では、二倍近い改定になったケースもございますので」


「二倍」という言葉に、工は思わず息をのんだ。それに比べれば、一・五倍は「良心的」だとでも言いたげな口ぶりだった。この状況そのものが、すでに常軌を逸しているという感覚が、工の中で確信に変わった。


「ご契約が難しいようでしたら、他にお住まいをお探しいただくことも……」


言葉は丁寧だったが、選択肢はほとんど残されていなかった。工は「少し考えさせてください」とだけ言って、窓口をあとにした。帰りの電車の中で、工はスマートフォンで、もう一度不動産サイトを開いてみた。結果は、美咲が調べたのと同じだった。契約書に判を押すか、住み慣れた街を出るか。どちらを選んでも、これまでの生活水準を維持することはできない。それだけが、はっきりしていた。


きっかけは、会社の給湯室でのなにげない立ち話だった。同期の坂本が、缶コーヒーを片手にこう言った。


「うちさ、先月から嫁が外貨預金始めたんだよ。ドルとユーロ、半々くらいで」


工は「へえ」とだけ返したが、内心では動揺していた。坂本の家も、佐久間家とそう変わらない年収のはずだった。それでも、もう動き始めている。


「怖くないのか、それ」


工が聞くと、坂本は少し笑った。


「怖いよ。でも、円のまま置いておくほうが、もっと怖くなってきた。うちの親父なんか未だに『そんな博打みたいなこと』って言ってるけどさ、正直、今の状況のほうがよっぽど博打だと思わないか」


その夜、工は美咲にその話をした。以前、大自身が美咲に投げつけた「博打みたいなこと」という言葉が、今度は自分の口から、少し違う響きを持って出てきたことに、大自身が戸惑っていた。


美咲は静かに聞いていたが、すぐには何も言わなかった。二人とも、まだ答えを出せずにいた。


それから数週間、工は仕事の合間に、こっそりスマートフォンで為替や投資の記事を読むようになった。最初は外貨預金やドル建てMMFの記事ばかりだったが、あるニュースが目に留まった。


「日経平均、史上最高値を更新」


円安が進む一方で、日本株は大きく上昇していた。記事を読み進めると、理由が書かれていた。海外の投資家から見れば、円建ての日本企業の株価は、ドルやユーロに換算すると信じられないほど割安に映る。輸出企業は円安そのものが追い風になっている面もあり、海外マネーが日本株になだれ込んでいるのだという。皮肉なことに、生活者にとっての苦しみの原因である円安が、株式市場にとっては「バーゲンセール」の合図になっていた。


工は、その記事をもう一度、最初から読み直した。自分たちが働いている国の企業の株が、外国人にとって「お買い得」になっている。ならば、自分たちがその「お買い得」を、外国人より先に、あるいは同じように買うことはできないのだろうか。


その週末、工は美咲に切り出した。


「外貨預金だけじゃなくて、NISAで日本株や投資信託を買うのも、ありなんじゃないか。会社の同僚にも、NISAでオルカンとかS&P500を積み立ててる人がいるらしい。それに、日本株も今、外国人が買いに来てるくらい上がってる」


美咲はスマートフォンでNISAの制度を調べながら、少しずつ興味を持ち始めた。非課税で運用できること、SBI証券のような大手ネット証券なら手数料も抑えられること。二人でリビングのテーブルに資料を広げ、外貨預金、外貨建てMMF、そしてNISAでの投資信託や日本株。それぞれの利点と不安を、夜遅くまで話し合った。


「全部中途半端にやるより、一つに絞ったほうがいいのかな」


美咲がそう言うと、工は首を横に振った。


「いや、逆に、一つに賭けるほうが怖い気がする。少しずつ、いろんな方向に分けておいたほうが、まだ気が楽だ」


結論はすぐには出なかった。だが、これまでのように「動かない」という選択肢は、もう二人の頭の中から消えていた。問題は、動かないことのリスクではなく、どう動くかという段階に移っていた。


二人は結局、契約更新書に判を押した。家賃は二十二万二千円になった。判を押す工の手は、思ったより落ち着いていた。もう迷う時間は残されていなかったし、迷うこと自体に、意味がなくなっていた。


同じ月、佐久間家は月々の貯蓄額を三つに分けることにした。半分は、これまで通り円の普通預金に。残りの半分を、さらに二つに分け、一方をドル建てのMMFに、もう一方をNISA口座を通じて、オルカンと呼ばれる全世界株式インデックスファンドの積み立てに回した。工はスマートフォンの画面を何度も確認しながら、慣れない操作で口座を開設した。すべてを賭ける勇気は、まだなかった。それでも、これまで「円だけ」だった選択肢に、初めていくつかの道ができたことに、工は小さな安堵を覚えていた。


蓮には、まだ何も説明していなかった。家賃が上がったことも、投資を始めたことも、子供に理解させるには、まだ複雑すぎる話だった。ただ、前より少しだけ、外食の回数を減らそうと美咲が言い出したことにだけ、蓮はうっすらと気づき始めていた。ある日、蓮が学校から帰ってきて、こう言った。


「クラスの子が、お父さんの会社、海外に引っ越すんだって。ドルでお給料もらうようになるって言ってた」


工と美咲は、思わず顔を見合わせた。それが、まだ遠い世界の話なのか、それとも、そう遠くない未来の自分たちの姿なのか、二人にはまだ、判断がつかなかった。


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