通知書
二〇二七年十二月
美咲が外貨預金の話を持ち出すたび、工は結局、首を縦に振らなかった。
「今から始めても、もう遅いんじゃないか」「手数料だって馬鹿にならない」「そもそも、いつ円に戻すタイミングを見極めればいいんだ」
理由はいくらでも出てきた。美咲がスマートフォンで調べた資料を見せても、工はそのたびに、別の懸念を持ち出した。それは議論というより、工が自分自身を納得させるための、堂々巡りの独り言に近かった。美咲もそれに気づいていたのか、しばらくすると強く迫ることをやめ、ただ黙って新聞の経済面を切り抜いて、冷蔵庫に貼るようになった。
だが本当のところ、工が踏み切れなかったのは、もっと単純な感情だった。長年勤めた会社から円で給料をもらい、円で家賃を払い、円で生きてきた自分が、その円を見限るという行為そのものに、後ろめたさに似た抵抗があった。それは裏切りに近い感覚だった。父親の代から、真面目に働いて、真面目に円を貯めることが、正しい生き方だと教えられてきた。その価値観を覆すことは、工にとって、単なる資産運用の話以上の意味を持っていた。
結局、佐久間家の貯金は、あの日から変わらず円のまま、少しずつ目減りし続けていた。通帳の数字は変わらないのに、その数字が買えるものの量は、確実に減っていた。美咲はそのことに気づくたび、何も言わずに家計簿のページをめくった。
マンションの管理会社から封書が届いたのは、師走に入ってすぐのことだった。いつもの郵便物に紛れて、少し厚みのある茶封筒がポストに入っていた。工は帰宅してから、それを開封した。
「賃貸借契約に関するご案内」という表題の下に、工はしばらく意味を理解できなかった。オーナー変更のお知らせ。そして、更新にあたっての賃料改定のお知らせ。文面は丁寧な事務文体で書かれていたが、その丁寧さが、かえって現実感を薄れさせた。
現在の家賃は十四万八千円。改定後は、二十二万二千円。
一・五倍。
工は数字を何度も見直した。桁を見間違えたのではないかと思い、電卓アプリを開いて、十四万八千円に一・五を掛けてみた。答えは変わらなかった。
「なにかの間違いじゃないか」
工は封書を持ったまま、その日のうちに管理会社に電話をかけた。担当者の口調は、驚くほど淡々としていた。慣れた対応だった。
「今回、物件のオーナー様が変わりまして。海外の投資ファンドが取得された形になります。周辺相場との乖離が大きいということで、今回の改定になりました」
「周辺相場」という言葉に、工は引っかかった。聞けば、この地域はここ半年で外国人投資家の購入が急増しているという。都心へのアクセスの良さと、割安感が評価されているらしい。円建てで見れば同じ物件でも、ドルやユーロで見れば「異常に安い」買い物になる。彼らにとっては、値上げではなく、単なる適正化だった。
「他の入居者の方々にも、同様のご案内をお送りしています。ご不明な点がございましたら、また改めてご連絡ください」
電話を切ったあと、工はしばらくソファに座ったまま動けなかった。部屋の中を見回した。子供部屋、ダイニング、リビング。八年前、蓮が生まれる少し前に引っ越してきたこの部屋には、それだけの時間が積み重なっていた。壁には蓮の身長を記録した鉛筆の線が残っている。それを、他人の資産価値の計算式によって、突然引き剥がされるような感覚があった。
その夜、美咲は契約書を何度も読み返していた。更新まで、あと二ヶ月。
「引っ越すにしても、今どこも同じような話になってるみたいだよ」
美咲がスマートフォンの画面を見せた。地域の掲示板には、似たような投稿がいくつも並んでいた。「うちも同じ通知が来た」「オーナーが外資に変わってから急に」「更新しない選択肢がほぼない」「隣町のマンションも軒並み二割から五割値上げ」。コメント欄には、怒りと諦めが入り混じった書き込みが延々と続いていた。
美咲はさらに検索を続けた。ニュースサイトの見出しには「外国人投資家、日本の住宅市場を席巻」「都心賃貸、二極化進む」といった文字が並んでいた。ある記事では、識者が「円安を背景にした海外資本の不動産取得は、今後さらに加速する見通し」とコメントしていた。美咲はその記事を、工の目の前でスクロールしながら読み上げた。
工は黙って画面を見つめていた。頭の中で、以前テレビで見た仲本という女性の、あの言い淀んだ一瞬が、なぜか蘇っていた。「今の水準の延長では、正直厳しいと思います」。あのとき彼女が最後まで言わなかった数字が、今、自分たちの住む場所の値札という形で、ようやく答え合わせをされたような気がした。
「あの人、テレビで曖昧なことしか言わなかったけど」工がぽつりと言った。「今思えば、言えなかったんじゃなくて、言ったら大変なことになるから言わなかったんだろうな」
美咲はその言葉に、何も答えなかった。ただ、契約書のページをもう一度、静かにめくった。
蓮が、寝る前に小さな声で聞いた。
「僕たち、引っ越すの?」
工は、すぐには答えられなかった。蓮の部屋のドアの隙間から漏れる光の中で、息子の不安そうな顔がはっきりと見えた。小学校の友達と離れることを、蓮なりに心配しているのだろうと工は思った。
「まだ決まってないよ。お父さんとお母さんで、ちゃんと考えるから」
そう答えるのが精一杯だった。蓮は小さく頷いて、布団に潜り込んだ。ドアを閉めながら、工は自分の声が、思ったより頼りなく響いたことに気づいていた。
リビングに戻ると、美咲がテーブルの上に、通知書と契約書、そして家計簿を並べて置いていた。三つの紙が、まるで審判を待つように、明かりの下で静かに並んでいた。
「今夜、決めなくていいから。でも、そんなに時間もないよ」
美咲の声は落ち着いていたが、その落ち着きの裏に、疲れが滲んでいるのが工にはわかった。工は椅子に腰を下ろし、三枚の紙を、順番に、何度も見比べた。答えは、まだそこにはなかった。




