表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
売られた日本、買ったのは誰だ  作者: 藤一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/55

効かない処方箋

二〇二七年六月〜七月


仲本翔子(なかもとしょうこ)のデスクには、三台のモニターが並んでいる。左端の一台は、もう半年近く同じ色を映し続けていた。赤。ドル円は開いた瞬間から売られ、閉じる頃にはさらに売られている。


翔子の一日は、朝五時半に始まる。ニューヨーク市場の引け値を確認し、海外の主要メディアの論調に目を通す。この半年、彼女の朝の儀式には、ひとつ新しい項目が加わっていた。SNS上での「円安関連の投稿」のトレンドチェックだ。市場が理屈で動かなくなった分、群衆心理の温度を測ることが、以前より重要な仕事になっていた。


日銀が二パーセントへの利上げを発表した朝、フロアは一瞬だけ色めき立った。円は数分で一円ほど戻した。トレーダーたちが一斉にモニターに顔を近づけ、誰かが「来たか」と小さく声を上げた。だが昼を過ぎる頃には、それも消えていた。誰かが小さく笑った。悪意のある笑いではない。もう、驚かなくなったという意味の笑いだった。


「またオオカミ少年か」


隣の席のトレーダーがつぶやいた。翔子はそれに何も返さなかった。返す言葉が、もう手元になかった。彼女は自分のノートに、その日の値動きを記録した。数字は毎回違うのに、パターンはいつも同じだった。発表直後の小さな戻り、そして数時間かけての、より大きな下落。まるで市場全体が、日銀の一挙手一投足を試すかのように。


昼休み、翔子は同僚の若手アナリストとランチに出た。後輩は最近、顧客向けのレポート作成で苦戦していると打ち明けた。


「先輩、正直に聞きたいんですけど。この状況、いつか収まるんですかね。それとも、もう構造的に無理なんですかね」


翔子はしばらく考えてから答えた。


「収まるかどうかより、収まるためのコストが、みんなが思っているよりずっと大きいってことだと思う。それを誰も、はっきり言いたがらない」


後輩は黙って頷いた。翔子自身、その答えに完全に満足していたわけではなかった。アナリストという仕事は、常に「わからないこと」に対して、何かしらの答えを出すことを求められる。だが今回ばかりは、その「答え」が、あまりに重い代償を伴うものだった。


夜、翔子は格付け機関のアナリストと電話で話した。相手は言葉を選びながら、それでも結論ははっきりしていた。


「防衛費の急増と、利払い費の急増が同時に来ています。日銀が利上げを続ければ続けるほど、国債の利払いは雪だるま式に膨らむ。財政の持続可能性という観点から、格下げの検討に入らざるを得ません」


「猶予はどれくらいありそうですか」


翔子が尋ねると、相手は少し間を置いた。


「正直、我々の内部でも意見が割れています。ただ、次の四半期決算までには、何らかの判断を出すことになると思います」


電話を切ったあと、翔子はしばらく画面を見つめていた。頭の中には、単純な等式が浮かんでいた。


利上げをすれば、為替は多少救われる。だが財政が死ぬ。

利上げをしなければ、財政は保つ。だが円が死ぬ。


どちらに転んでも、誰かが血を流す構造だった。しかも、その「誰か」は、いつも同じ顔をしていない。財政が死ねば、年金生活者と公共サービスに依存する人々が最初に犠牲になる。円が死ねば、輸入に依存する暮らしをする、ほとんどすべての国民が犠牲になる。翔子は、自分の仕事が単なる数字の予測ではなく、誰の痛みを優先するかという問いに、否応なく関わっていることを痛感していた。


翌週、格付け機関が日本国債を一段階格下げした。理由書には「地政学リスクの再評価」と「財政と金融政策の板挟み」という、翔子がまさに恐れていた二つの言葉が並んでいた。市場はこの発表を、ある程度織り込み済みとして受け止めたが、それでも円は追加で数円売られた。


その日の会議で、翔子は試算を求められた。上司の問いは単純だった。


「結局、何パーセントまで上げれば円は止まるんだ」


会議室には、部長クラスの幹部が五人ほど集まっていた。翔子はスプレッドシートを開き、いくつかの前提を置いて計算した。米国の金利水準が現状のまま続くと仮定し、実質金利差が過去の「有事の円買い」局面と同程度まで縮まる水準を逆算する。さらに、地政学リスクプレミアムという、通常の計算式には存在しない項目を、独自に加味した。


出てきた数字は、二桁の前半――十パーセントを数ポイント超える水準だった。


「理論上は、ここまで上げないと止まりません。ただし、これをやれば住宅ローン破綻と中小企業倒産が同時多発します」


会議室は静かになった。誰もその数字を公にすることに賛成しなかった。ある部長は「顧客向けには、もう少し丸めた表現にできないか」と提案した。翔子は反論しなかったが、内心では、数字を丸めることの意味を考えていた。丸めれば丸めるほど、それは真実から遠ざかる。だが、そのままの数字を出せば、市場にどんなパニックを引き起こすかもわからない。


だが、その数字はすでに一部のエコノミストのレポートに漏れ始めていた。海外の投資銀行のリサーチにも、似たような試算が掲載されているのを翔子は見つけた。もはや、隠し通せるものではなくなっていた。


(三ヶ月前、二〇二七年三月の回想)


数日前の会議の帰り、翔子はふと、三ヶ月前――まだ日銀の利上げが一パーセントに過ぎなかった頃――に受けたテレビ出演の依頼を思い出していた。台本には「わかりやすく」という付箋がついていた。彼女はスタジオの照明の下で、できるだけ淡々と話そうとした。共演のコメンテーターは、視聴者にわかりやすいセンセーショナルな言葉を求めがちで、翔子はそのたびに、なんとか正確さを損なわない範囲で言葉を選んだ。


「日銀が一パーセント利上げをしても、米国との金利差はまだ四パーセント以上あります。この程度の利上げでは、資金は円に戻ってきません。市場はすでに、小刻みな利上げに反応しなくなっています」


「では、どこまで上げれば効くのか」というキャスターの問いに、翔子はあえて具体的な数字を避けた。


「今の水準の延長では、正直厳しいと思います。ただ、それ以上のことは、この場では申し上げにくいです」


だが放送のあと、SNSでは彼女の言い淀んだ表情そのものが切り取られ、「仲本アナリストが絶句」という見出しとともに拡散された。誰かが独自に試算した「必要利上げ幅」の数字とともに、「日銀はもう手遅れ」という言葉がトレンド入りした。翔子が伝えたかったのは絶望ではなく、選択のコストだった。だが、恐怖はいつも、説明よりも速く広がる。


その夜、翔子は自分のデスクに戻り、かつて書いた「一ドル百七十円」のレポートを、もう一度開いてみた。あの頃の自分が前提にしていた世界は、もうどこにも存在しなかった。


彼女は静かにファイルを閉じ、代わりに新しいレポートの下書きを開いた。タイトルはまだ決まっていない。ただ、冒頭の一文だけは、すでに頭の中で固まっていた。


「もはや、金利差だけで為替を語れる局面ではない」


窓の外では、いつものように東京の夜景が広がっていた。だがその明かりの一つ一つの奥に、翔子は今、無数の佐久間家のような家庭の生活があることを、以前よりずっと強く意識するようになっていた。数字の向こうにある生活を想像することが、いつからか彼女の仕事の、目に見えない一部になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ