レシートの重さ
二〇二六年十一月〜二〇二七年十二月
佐久間工、三十八歳。都内の中堅メーカーで働く係長で、年俸は七百六十万円。賞与という概念はもう五年前になくなった。成果主義への移行という名目で、会社は賞与を年俸に組み込み、代わりに評価による変動幅を設けた。だが実際のところ、評価がよほど飛び抜けない限り、年俸の伸びは微々たるものだった。上がるのは毎年四月、額にして一万五千円かそこら。
妻の美咲はパートで月八万円ほど稼いでいる。近所のドラッグストアで週四日、レジと品出しを担当している。息子の蓮は小学三年生。サッカーが好きで、休日は近所の公園でボールを蹴っているのを見かけることが多い。
佐久間家の家計は、決して裕福ではないが、破綻もしていなかった。少なくとも、あの夜までは。
ミサイルが四国に落ちた夜、工は残業中だった。部の月次資料をまとめていて、気づけば日付が変わっていた。Jアラートの音がオフィスに響いたとき、誰もが最初は誤報だと思った。テレビの前に人だかりができて、誰も口を開かなかった。画面には「デブリではなく、ミサイルの可能性」というテロップが流れ続けていた。
あの夜のことは、工にとって「円安が始まった日」というより「世界が違う顔を見せた日」として記憶に残っている。翌朝、始発電車で帰宅した工を、美咲は青ざめた顔で迎えた。蓮はまだ眠っていた。「テレビ、つけっぱなしにしてたら怖がるから消したの」と美咲は言った。その日から、佐久間家の食卓では、テレビをつけるタイミングに、それとなく気を遣うようになった。
二〇二七年二月
最初の変化は、静かだった。
スーパーのレジ袋の中身が、いつの間にか軽くなっていた。美咲は最初、自分の買い方が雑になったのだと思っていたらしい。週末にまとめ買いをする量は変わっていないはずなのに、袋の中身がどこか物足りない。だが違った。小麦粉が先月より十二パーセント高くなっていた。輸入牛肉は棚から半分消え、代わりに国産の安い部位が並ぶようになった。輸入チーズの棚には「入荷未定」の札がかかったままになっていることも増えた。
「パンより米にしよう」
美咲がそう言ったのは、円安が始まって三ヶ月目のことだった。単純な話に聞こえて、工にはそれが最初の白旗のように感じられた。それまで週末の朝は、近所のベーカリーで買ったパンとコーヒーで済ませるのが、佐久間家のささやかな贅沢だった。それが、いつからか土鍋で炊いた白米と味噌汁に変わっていた。蓮は最初、不満そうな顔をしていたが、すぐに慣れた。子供の適応力は、大人よりずっと早い。
美咲は買い物のたびに、スマートフォンの電卓アプリを使うようになった。レジに並ぶ前に、カゴの中身の合計をあらかじめ計算しておく。予算をオーバーしそうなときは、何かを棚に戻す。その所作が、いつの間にか日常の一部になっていた。
二〇二七年三月
工の会社でも、空気が変わり始めていた。原材料の多くを輸入に頼る製造業にとって、円安は諸刃の剣だった。輸出部門は一見潤っているように見えたが、原材料費の高騰がそれを相殺し、結局のところ利益は伸び悩んでいた。会社は「為替影響を踏まえた構造改革」という名目で、中途採用の凍結と一部部署の統廃合を発表した。工の部署は今のところ影響を受けていなかったが、社内の空気は明らかに張り詰めていた。
日銀が利上げを発表するたび、工はニュースを見て少しだけ安堵した。〇・五パーセント、次は一パーセント。しかし為替は動かない。会社の先輩は言った。
「アメリカが五パーセント台なんだ。うちが一パーセント上げたところで、焼け石に水だよ」
工にはその意味がよくわからなかったが、スーパーの値札を見ればわかった。利上げのニュースが流れた翌日だけ、卵と食パンの値段が一瞬止まる。だがそれも三日と持たない。まただ、と美咲がため息をつく回数が増えていった。
夕食時、テレビの経済番組に、見覚えのある女性アナリストが出ていた。仲本翔子、というテロップが出ている。かつて「一ドル百七十円」というレポートを書いた人物だとは、工はもちろん知らない。ただ、彼女の口調が妙に平坦で、それでいて疲れているように聞こえたことだけが記憶に残った。
「日銀が一パーセント利上げをしても、米国との金利差はまだ四パーセント以上あります。この程度の利上げでは、資金は円に戻ってきません。市場はすでに、小刻みな利上げに反応しなくなっています」
キャスターが「では、どこまで上げれば効くのか」と問うと、仲本は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「今の水準の延長では、正直厳しいと思います。ただ、それ以上のことは、この場では申し上げにくいです」
その言い淀み方が、かえって工の記憶に残った。数字を言わなかったことが、何か途方もない数字を隠しているように感じられた。美咲がリモコンを取り、チャンネルを変えた。「こういうの、見ても暗くなるだけだから」。工は何も言わなかったが、あの一瞬の沈黙だけが、頭の片隅に引っかかったまま消えなかった。
二〇二七年四月
四月、工の給料は一万八千円上がった。同じ月、電気代の請求書は九千円上がっていた。差し引きで、実質的には目減りしている。ボーナスがないぶん、この一万八千円が一年間の唯一の「上振れ」だった。それが物価上昇にほとんど飲み込まれるのを見て、工は初めて数字に対して怒りに似た感情を持った。
給与明細を眺めながら、工は自分がこれまでどれだけ「毎年少しずつ良くなっていく」という前提の上で人生設計をしてきたかに気づかされた。蓮の教育費、住宅ローンならぬ家賃、老後の備え。すべてが、緩やかな右肩上がりを前提にした計算だった。その前提が、音を立てて崩れていく感覚があった。
会社の同期との飲み会でも、話題は決まって家計のことになった。「うちも米から玄米に変えたよ、量が同じでも安いから」「子供の習い事、一つ減らした」。誰もが、少しずつ何かを削っていた。それでいて、誰も声高に不満を叫ぶわけではなかった。ただ静かに、生活の輪郭を縮めていくだけだった。
二〇二七年十月〜十二月
秋になる頃には、外食は月に一度の贅沢になっていた。蓮の欲しがっていたゲームソフトは、円建て価格そのものが改定され、以前の一・六倍になっていた。「今買わないと、また上がるよ」と店員に言われ、工は財布の中で計算をした。買わないという選択肢しかなかった。蓮は不満げな顔をしたが、何も言わなかった。その沈黙が、工の胸に小さな棘のように刺さった。
美咲は外貨預金の話を持ち出すようになった。会社の同僚が始めたらしい。工は最初、反対した。ギャンブルのようなものだと思っていたからだ。長年、円で働き、円で暮らしてきた自分にとって、その円を疑うという行為自体が、どこか居心地の悪いものだった。
「うちは真面目に働いて、真面目に貯めてきたんだから、そんな博打みたいなことしなくていいだろう」
工がそう言うと、美咲は少し困ったような顔をした。反論はしなかったが、納得もしていないのが見て取れた。
だが年末が近づき、円が一ドル二百四十円を超えたというニュースを見たとき、工は初めて、円のまま貯金を持ち続けることのほうが「賭け」なのではないかと考えるようになっていた。それでも、その考えを口に出すことは、まだできなかった。
台所のテーブルの上には、いつからか値上げの通知はがきが積まれるようになっていた。電力会社、ガス会社、火災保険。かつては読み飛ばしていたそれらの紙切れを、美咲は今、蛍光ペンを片手に一枚ずつ読むようになっていた。値上げ幅を書き出したメモが、冷蔵庫に貼られていた。
蓮の通う小学校でも、給食費の改定通知が配られたと聞いた。保護者会では、値上げそのものよりも「今後も上がり続けるのか」という不安が中心的な話題になったという。美咲がママ友から聞いた話では、私立中学受験を諦める家庭が、ここ最近になって急に増えているらしかった。
それは特別な事件ではなかった。ただ、少しずつ、確実に、この国の「普通」の輪郭が変わっていっただけだった。佐久間家の食卓は、これまでと変わらず温かかったが、そこに並ぶ皿の数と中身は、確実に、静かに、痩せていっていた。




