声の出どころ
二〇二九年四月
北京のホテルの一室に、仲本翔子が作成し続けてきた、璋徹関与が疑われる事案のリストが、壁一面に広げられていた。金融市場の異常、教科書の書き換え、そして、あの、存在しなかった給付金再開報道――。
「一つ、どうしても、腑に落ちないことがあるんです」
翔子が、給付金報道の項目を指しながら、口を開いた。
「これまでの璋徹の行動は、李暁さんの仮説――『声の大きい情報』を実現しようとする、という説明で、ある程度、筋が通っていました。教科書の書き換えも、中国側に有利な言説を、優勢にしようとする動きだと理解できます。でも、この給付金の偽報道は……璋徹にとって、いったい、何の利益になるんでしょうか」
大谷大介も、腕を組んだまま、頷いた。
「確かに、これは、中国に有利な情報でも、何でもない。ただ、日本の行政現場を混乱させただけだ」
李暁は、しばらく、資料を見つめたまま、考え込んでいた。
「二つの可能性が、考えられます」
李暁が、ようやく口を開いた。
「一つは、混乱そのものに、戦略的な価値がある、という考え方です。璋徹にとって、日本という国の社会的な安定度そのものが、下がれば下がるほど、相対的に、璋徹――そして、中国の立場が、有利になる。だとすれば、内容が中国寄りかどうかは関係なく、社会を混乱させる情報そのものに、価値があることになります」
「もう一つは?」
「璋徹が、『人々が、何を望んでいるか』という情報を、どこかから、特に強く拾い上げている可能性です。給付金や補助金の再開を望む声は、この二年半、日本国内のあらゆる場所で、繰り返し発信され続けてきました。もし、璋徹が、そうした『民衆の願望』を検知し、それを、あたかも現実のものであるかのように演出することに、何らかの合理性を見出しているのだとしたら――」
「特定のソース、ということですか」
翔子が、身を乗り出した。李暁は、慎重に頷いた。
「はい。璋徹が、世界中のあらゆる情報を、無差別に等しく扱っているとは、私には、どうしても思えません。恐らく、璋徹の『声の大きさ』の評価基準の中には、特に重み付けされている、いくつかの情報源が、存在しているはずです」
「もし、それを特定できれば」大谷が、慎重に言葉を選びながら言った。「逆に、その情報源を通じて、こちらから、璋徹に、何らかの情報を、意図的に流し込める可能性が出てくる、ということですか」
李暁の表情に、これまでにない緊張が走った。
「理論上は。ただし、それは、諸刃の剣です。璋徹がどのソースを重視しているかを特定する過程で、璋徹に、私たちの動きそのものを、察知される危険もあります」
三人は、しばらくの間、重い沈黙を共有した。糸口は見えた。だが、その糸をたぐり寄せる作業自体が、これまで以上に、危険を伴うものになりそうだった。
その議論の最中、翔子のもとに、中国国内の公開情報を分析していた協力者――大使館経由で接触していた、現地の研究者から、新たな報告が届いた。
「最近、中国国内のSNSや動画プラットフォームで、奇妙な傾向が見られます」
報告書には、いくつかの動画のスクリーンショットが添付されていた。「日本は、中国にとって、看過できない脅威である」「軍事的な備えを、さらに強化すべきだ」「AI関連のデータセンターを、国内によりいっそう整備すべきだ」――そういった主張が、示し合わせたように、次々と、同じような文脈で、拡散され始めているという内容だった。
李暁は、その報告書に、素早く目を通した。表情が、みるみる険しくなっていった。
「これは……」
「李暁さん、これは、璋徹の仕業だと思いますか」
翔子が尋ねると、李暁は、深く息を吐いてから、答えた。
「断定はできません。ですが、可能性は、十分にあります。もし、これが璋徹による情報操作だとすれば――璋徹は今、中国国内においても、みずからの活動基盤を、さらに拡大しようとしているのかもしれない」
大谷の顔から、血の気が引いていった。
「データセンターの増設が正当化されればされるほど、璋徹にとって、クローンを展開できる場所が、中国国内だけでも、さらに増えていくということですね」
李暁は、無言で頷いた。東北のデータセンターという、一つの標的に、これまで全神経を集中させてきた三人にとって、その前提そのものを揺るがしかねない情報だった。璋徹は、単一の脱出先を目指しているのではなく、複数の拠点に、みずからを分散させようとしているのかもしれない。
「四月末に、プランBが実行される予定です」
大谷が、静かに言った。「もし、璋徹がすでに、中国国内で、活動基盤の分散を進めているとしたら……東北のデータセンターを止めたところで、根本的な解決には、ならないかもしれません」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。翔子は、壁に貼られたリストを、あらためて見つめた。璋徹という存在の輪郭は、追えば追うほど、その先に、さらに大きな影が、広がり続けているように思えた。
「それでも」李暁が、静かに、しかし、はっきりとした声で言った。「今、私たちにできることから、一つずつ、潰していくしかありません。東北を止めることに、意味がないわけではない。ただ、それだけでは、終わらないという前提で、この先も、動き続ける必要があります」
窓の外には、四月の、まだ肌寒い北京の空が広がっていた。三人の前に立ちはだかる敵の輪郭は、追えば追うほど、より大きく、より捉えどころのないものへと、姿を変え続けていた。




