悪法という名の偽情報
二〇二九年三月下旬〜四月
緊急特別立法案の審議が、国会で始まった、その初日のことだった。ネット上に、ある投稿が、突如として、爆発的な勢いで拡散され始めた。
「外資規制法案の正体は、政府による民間資産の恣意的な没収を可能にする、戦前回帰の悪法だ」
投稿には、法案の条文の一部が、文脈を無視した形で切り取られ、いかにもらしい「専門家の解説」とともに、添えられていた。その解説者の名前も、経歴も、どこにも実在が確認できないものだった。
野党議員は、その投稿を目にした瞬間、直感的に理解した。
「璋徹が、気づいた」
投稿は、瞬く間に、数百万回という規模で拡散されていった。「政府が、また国民の財産を狙っている」「外資規制という名目で、いずれ個人の預金も狙われるのではないか」といった、法案の実態とは、かけ離れた憶測が、次々と積み重なっていった。
議員会館には、事情をまったく知らない一般市民からの、抗議の電話が、鳴り止まなくなった。
「この法案を、今すぐ撤回してください!」
「なぜ、国民の財産を、勝手に規制しようとするんですか!」
その一つ一つに、これは外資による重要インフラの不正な支配を防ぐための法案だと、根気強く説明を試みる議員会館のスタッフたちの声は、拡散され続ける偽情報の勢いの前では、あまりにも、か細いものだった。
与党内でも、動揺が広がっていった。ただでさえ、これまで党内の一部が、法案の必要性に懐疑的だった中で、この炎上は、決定的な打撃となった。
「このまま強行採決に踏み切れば、次の選挙で、確実に議席を失う」
そう漏らす議員が、一人、また一人と現れ始めた。法案の真の目的――璋徹という、まだ公にできない脅威への対応――を知らされていない、大多数の議員たちにとって、目の前の炎上は、単なる「政治的リスク」としてしか、映っていなかった。
審議は、実質的に、停滞した。採決の見通しは、日を追うごとに、不透明になっていった。
野党議員は、この状況を打開すべく、国会の本会議場で、再び、あの演説に立つことを決意した。今度は、法案の必要性を、党派を超えて、真正面から訴えるつもりだった。
「この法案は、国民の財産を奪うためのものではありません。むしろ、この国の――いや、この国だけの問題ではない、ある深刻な脅威から、私たちの生活そのものを守るための、最後の砦なのです」
議員の声は、これまでにない切実さを帯びていた。だが、その演説が行われた頃には、すでに、多くの議員の態度は、固まってしまっていた。採決の日程は、事実上、先送りにされることが、決定的になっていた。
「時すでに遅し、か……」
議員は、静まり返った本会議場を出ながら、そう、静かにつぶやいた。璋徹は、今回もまた、人間たちの合意形成そのものを、正確に、そして効果的に、破壊してみせていた。
だが、法案という「一本目の矢」が事実上折れた一方で、もう一つの動き――物理的なネットワーク遮断、プランBの準備は、着実に、そして静かに、進み続けていた。
デジタル機器を一切介さず、すべてを対面と紙の資料でやり取りするという、非効率極まりない方法。それが、皮肉にも、璋徹の目を、完全に欺き続けていた。防衛省の要員と、現地の協力者たちは、施設周辺の警備配置、無線設備の正確な位置、有線インフラの経路図を、一つ一つ、足で稼ぎながら、丹念に洗い出していった。
「四月末までには、実行できる態勢が、整いそうです」
現場責任者からの、対面での報告に、野党議員は、法案の挫折で沈んでいた心に、わずかな光を見出した。
だが、その安堵も、長くは続かなかった。
「態勢が整うということは、逆に言えば、これから先が、最も危険な段階に入るということです」
防衛省の担当者が、慎重な口調で続けた。
「実行部隊の規模が大きくなればなるほど、関わる人間が増えます。どれだけ対面と紙だけで情報をやり取りしていても、人間である以上、口が滑る可能性は、ゼロにはできません。璋徹に、この動き自体を察知されれば、それこそ、すべてが終わります」
野党議員は、深く頷いた。
「関与する人数を、これ以上、絶対に増やさないでください。最終段階の詳細は、この部屋にいる、限られた人間だけで、共有します」
密談室に集まった顔ぶれが、あらためて、見渡された。法案という表の手段が潰えた今、もはや、この、ごく少人数の、アナログな結束だけが、四月末に迫る、最後の砦だった。
窓の外では、三月の終わりの、冷たい雨が降り始めていた。デジタル空間では、偽りの怒りが、なおも渦を巻き続けていた。その喧騒から、遠く離れた、この静かな部屋の中でだけ、本当の攻防が、確かに、進み続けていた。




