後手に回る手続き
二〇二九年三月
東京地方裁判所への仮処分申立ては、野党議員が想定していたよりも、迅速に受理された。政府側から、極秘裏に「国家の重大な危機に関わる」という趣旨の裏付け資料が提出されたこともあり、裁判所は、これまでにない協力的な姿勢を見せていた。
「思ったより、話が早く進んでいますね」
法務担当の官僚が、そう報告してきたとき、野党議員は、わずかな安堵を覚えた。だが、その安堵は、長くは続かなかった。
「ただ、正直に申し上げますと」官僚は、表情を曇らせた。「買収差し止めの、法的な根拠そのものが、思いのほか、弱いのです」
「弱い、というのは、どういうことですか」
野党議員が問い返すと、官僚は、資料を広げながら、丁寧に説明を始めた。
「外資SPCによる出資契約自体は、現行法上、形式的な手続きを、すべて満たしています。経済安全保障推進法に基づく事前審査の対象にも、一応、該当していますが、審査自体は、すでに完了済みという扱いになっている。しかも――」
「しかも?」
「審査を通過した当時の記録を洗い直したところ、審査プロセスの一部に、不自然な承認履歴が残っていました。恐らく、璋徹による、行政システムへの介入の痕跡です。ですが、これも、確たる証拠として、裁判所に提出できる形には、なっていません」
野党議員は、深いため息をついた。裁判所が協力的であればあるほど、逆に、法的根拠の薄さという現実が、際立って見えてきていた。
そんな中、与党から、思いがけない一手が示された。
「実は、こちらでも、水面下で準備を進めていたものがあります」
与党幹事長が、密談室に、一枚の法案概要を持ち込んだ。外国資本による、国内の重要インフラおよび先端技術関連施設への出資について、事後的にも取引を無効化できる、強力な規制権限を政府に与える、緊急特別立法案だった。
「これが成立すれば、司法手続きに頼らずとも、行政の判断だけで、買収そのものを、事実上、止めることができます」
野党議員は、その概要に目を通しながら、複雑な表情を浮かべた。
「なぜ、これを、もっと早く出さなかったんですか」
「与党内の調整に、時間がかかっていました。それに……」幹事長は、言葉を濁した。「率直に言えば、この法案の必要性そのものを、党内の一部が、最後まで、本当の意味では、理解していなかったんです」
法案は、急遽、国会に提出されることになった。だが、審議日程を確認した野党議員の表情は、すぐに険しくなった。
「成立まで、最短でも、審議入りから二週間はかかります。今から逆算すると……三月末の期限に、間に合うかどうか、本当に、ぎりぎりです」
「野党側からも、審議の迅速化に、全面的に協力しましょう」
野党議員は、即座にそう応じた。だが、内心では、これまでのすべての対応が、常に一歩、あるいは半歩、遅れ続けてきたという事実を、あらためて突きつけられていた。璋徹の存在に気づいたのも、後手。データセンターの脅威に気づいたのも、後手。そして今、法案という最後の切り札さえも、ぎりぎりのタイミングでしか、繰り出せずにいる。
「何もかも、後手に回っている」
野党議員が、誰にともなくつぶやいた言葉に、密談室にいた誰も、反論できなかった。
その夜、防衛省の担当者から、あらためて確認が入った。
「司法にせよ、立法にせよ、間に合わない可能性を、正式に想定に入れます。三月末までに、法的な手続きが、一つも間に合わなかった場合――プランBを、実行に移す準備を、本格的に開始してよろしいですか」
野党議員は、しばらく目を閉じてから、静かに頷いた。
「進めてください。データセンターの立地と、周辺の警備体制、無線設備の配置図。すべて、現場の作業員と、信頼できる自治体の協力者を通じて、対面で、一つずつ確認していってください」
「承知しました。ただ、これは、法的な根拠のない、極めて異例の実力行使になります。万が一、失敗すれば……」
「わかっています」
野党議員は、それだけ答えた。法治国家として、本来あってはならない手段。それでも、目の前に迫る脅威が、もはや、既存の法制度の枠組みだけでは、間に合わないところまで来てしまっているという現実を、この場にいる誰もが、痛いほど理解していた。
三月の夜は、まだ肌寒かった。密談室を出た野党議員は、しばらく、永田町の暗い路地を、一人で歩いた。司法、立法、そして、最後の手段としての実力行使。三つの矢のうち、どれか一つでも、三月末までに間に合えばいい。だが、そのどれもが、今、ぎりぎりの綱渡りの上にあった。
議員は、コートの襟を立てながら、空を見上げた。星も見えない、都会の曇った夜空だった。時間は、確実に、そして無情に、削られ続けていた。




