存在しない窓口
二〇二九年三月
国会中継が乗っ取られ、あの野党議員の告発が、途中で不自然に差し替えられてから、数週間が経っていた。佐久間家のリビングでも、あの夜のニュースは、大きな話題になった。だが、政府からは、これといった追加の説明もないまま、事態は、また、なんとなく「収束した」かのような空気に、覆われていった。
「また、いつものパターンだね」
美咲が、テレビを見ながら、ため息交じりに言った。工も、同じ気持ちだった。この二年半で、何度も繰り返されてきた「大騒ぎ→うやむやな沈静化」というパターンに、驚くことすら、少なくなっていた。
それでも、工の心のどこかには、わずかな期待があった。もしかしたら、今度こそ、本当に、何かが落ち着く方向に向かっているのかもしれない――そんな、根拠の薄い希望を、完全には捨てきれずにいた。
だが、その希望は、すぐに、日々の値札によって、打ち砕かれていった。三月に入ってからの物価上昇は、これまでにも増して、容赦がなかった。米、油、卵。生活の根幹を支える品目ほど、値上がりの幅が大きかった。
「もう、何を削ればいいのか、わからなくなってきた」
美咲が、家計簿をつけながら、力なくつぶやいた。給食費や、蓮の学用品といった、削りようのない支出も、確実に膨らみ続けていた。
工は、久しぶりに、証券口座の画面を開いてみた。NISAで積み立ててきたオルカンも、ドル建てのMMFも、この数ヶ月、これまでのような右肩上がりの動きを、見せなくなっていた。むしろ、乱高下を繰り返しながら、じわじわと目減りしているようにさえ見えた。
「海外に分散させておけば安心って、みんな言ってたのに」
美咲の言葉に、工は、何も言い返せなかった。ニュースでは、相変わらず、市場の異常な値動きについて、「投機的な動きが影響している」といった、曖昧な説明が繰り返されるばかりだった。もはや、どこまでが本当の市場の動きで、どこからが、何者かによる操作なのか、誰にも判別がつかなくなっていた。
そんなある晩、ニュース番組の速報テロップが、佐久間家のリビングに、久しぶりの明るい話題を届けた。
「政府、生活支援のための緊急給付金と、各種補助金制度の再開を正式決定」
美咲が、思わず身を乗り出した。テロップの下には、具体的な給付額や、対象となる補助金の種類、そして、申請の受付が、来週から各自治体の窓口で始まるという案内まで、詳しく表示されていた。
「本当に? やっと、少しは楽になるかな」
工も、久しぶりに、心から安堵した表情を見せた。その夜、佐久間家の食卓には、これまでにない、明るい空気が流れていた。
翌週、美咲は、朝早くから、必要な書類を揃えて、区役所へと向かった。窓口には、同じように、給付金の申請に訪れたらしい人々が、すでに長い列を作っていた。
だが、順番が近づくにつれて、美咲は、窓口の奥から聞こえてくる、職員たちの困惑した声に、気づき始めた。
「そのような通知は、こちらには、一切届いておりません」
「いえ、テレビで、はっきりと、来週から受付開始だと……」
「申し訳ございません。現時点で、そのような制度について、区として把握している情報がございません。上位機関にも、確認を取っているところです」
列に並んでいた人々の間に、次第に、動揺と苛立ちの声が広がっていった。美咲も、順番が回ってきたとき、同じ答えを、職員から告げられた。
「本当に、申し訳ございません。今、私どもも、混乱している状況でして……」
その日の夕方のニュースは、まったく違う内容を伝えていた。
「本日、複数のテレビ局で放送された、政府の給付金制度再開に関する報道について、内閣府は、そのような発表を行った事実は一切ないと発表しました。現在、放送内容がどのような経緯で流れたのか、原因を調査しています」
美咲は、テレビの前で、しばらく、言葉を失っていた。あの、確かにこの目で見た、詳細な案内のテロップ。それが、最初から、存在しなかったことにされていた。
「また、あれなの……」
美咲の声には、怒りよりも、深い疲労が滲んでいた。工は、何も言えないまま、ただ、隣に座っている美咲の肩に、そっと手を置くことしかできなかった。
夜、蓮が眠ったあと、工と美咲は、リビングで、しばらく黙り込んでいた。
「これから、何を信じて、生活していけばいいんだろう」
美咲が、ぽつりと漏らした言葉に、工は、答えを持ち合わせていなかった。テレビも、ネットも、もはや、何が本当で、何が仕組まれたものなのか、生活者の目線からは、判別する術がなかった。
窓の外には、三月の、まだ冷たい夜風が吹いていた。政府による本物の支援も、届くかどうかわからない。かといって、目の前に映る情報も、信じられるとは限らない。そのどちらにも、確かな足場を見つけられないまま、佐久間家の夜は、また静かに更けていった。




