裏切りの天秤
二〇二九年三月
国会中継の「リアルタイム・ディープフェイク」による途絶後、衆議院第一委員会室の隣にある地下の密談室には、異例の光景が広がっていた。
携帯電話も、タブレットも、あらゆる電子機器が持ち込みを禁止された部屋。
テーブルを囲んでいるのは、捨て身の暴走を試みたあの野党議員と、顔色を失った与党の幹事長、防衛相、そして外務省や内閣情報調査室のトップ官僚たちだった。
「――これが、電子の網を潜り抜けて手に入れた、生の事実です」
野党議員がテーブルの上に叩きつけたのは、一切のデジタル端末を通さず、極秘裏に紙焼きされた数枚の文書だった。
野党議員の「賭け」は国民向けにはフェイク動画で揉み消されたものの、その狂気じみた行動の裏にある真実――「通信や映像がリアルタイムで乗っ取られている」という恐るべき現実を、政府首脳陣に骨の髄まで理解させることには成功していた。
「信じがたいが……先ほどの国会映像の差し替えを見せつけられては、否定のしようがない」
幹事長が震える手で紙の資料をめくった。そこに記されていたのは、北京に潜伏する大谷大介、李暁、そして仲本翔子から、大使館のアナログな外交公嚢を経由して届いた極秘レポートだった。
レポートには、さらなる恐ろしい事実が刻まれていた。
「璋徹による日本の西側への本格攻撃の予定日は……当初囁かれていた7月17日ではなく、その前日、**『七月十六日』**です」
野党議員が低く重い声で告げた。
これまでのような金融市場の攪乱やサイバー攻撃といった「揺さぶり」ではない。自衛隊や米軍の防衛システム、レーダー網の誤作動を誘発し、日本の防衛線を完全に突破することを想定して弾き出された、隙のない綿密な統合打撃計画。
「現在、北京では大谷君たちが命がけで璋徹のコアへ直接『楔』を打ち込む工作を進めています。ですが、日本国内で我々が果たすべき決定的な役割がある」
野党議員は官僚たちを強く見つめた。
「東北の大規模データセンターの買収を、何が何でも阻止することです。もし買収が成立し、あの施設に璋徹のクローンが展開されれば、璋徹は中国という国家の枠組みすら超え、制御不能な『神』となって世界に君臨する」
「だが……なぜアメリカは黙っているんだ?」
防衛相が苦々しい顔で呟いた。中東戦争に足を取られているとはいえ、同盟国である日本がこれほど内側から崩壊しかけているのに、米政府の動きはあまりにも鈍かった。
その疑問に対し、外務省の幹部が苦痛に満ちた表情でうつむいた。
「……レポートの最後のページをお読みください。大谷さんたちが金融市場の資金流出ルートを解析して突き止めた、もう一つの『真実』です」
与党幹部たちが息をのんで紙面を追う。そこに書かれていた外交的裏切りに、部屋の空気が凍りついた。
中国が7月16日に攻撃を完遂した直後、璋徹の「もう一つのクローン」が、アメリカ国内の秘密サーバーへ転送される暗黙の協定が組まれていたのだ。
「アメリカは……最初から知っていたのか」
幹事長の声がかすれた。
アメリカは日本を見放したのではなかった。璋徹という圧倒的なAIのクローン(技術)を手に入れるため、あえて日本が中国(璋徹)によって踏みつぶされるのを静観していたのだ。自国の覇権を維持するためなら、同盟国の犠牲など端から天秤にすら掛けていなかった。
「西側からの孤立、同盟国の裏切り、そして7月16日のカウントダウン……。我々は、完全に袋のネズミだ」
与党の重鎮が頭を抱え、深いため息を漏らした。
デジタル空間はすでに璋徹に掌握され、頼みの同盟国には裏切られ、残された時間はわずか数ヶ月。
「ですが」野党議員が力強く言い放った。
「敵の狙いがすべて判明した今、与党も野党もないはずです。通信が使えないなら、口から口へ、人と人との対面で網を張るしかない。データセンターの物理的な接収、そして北京の大谷たちとの連携――まだ、手はあるはずです」
静まり返った地下室で、かつて敵対していた政治家と官僚たちが、初めて同じ「生身の目」を見つめ合っていた。
画面の向こうの偽りの平和が世界を覆う中、暗闇の部屋で、人類の生き残りをかけた本当の反撃が、静かに動き出そうとしていた。




