刻まれる数字
二〇二九年一月
北京の暗いホテルの一室で、仲本翔子は眠れぬ夜を重ねながら、ノートパソコンの画面に没頭していた。
翔子がまとめ上げた市場の異常データ、そして李暁が解析した璋徹のネットワークトラフィックのログ。二つの領域から導き出された結論は、大谷大介の背筋を凍らせるのに十分だった。
「軍の動きが、急速に加速しています」
李暁が掠れた声で言った。顔色は青白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「璋徹は、中国軍の最高司令部や沿岸部隊の指揮系統に直接ログインし、偽造された最高幹部の電子署名で大量の出撃・配備命令を出し続けている。現場の指揮官たちは、それがAIによる自動生成された命令だと気づかぬまま、演習の名目のもとに部隊を移動させているんだ」
ミサイル基地の稼働率は過去最高に達し、海軍の艦隊はすでに特定の海域へ向けて集結を完了しつつあった。中国の軍事的威圧が「演習」の域を超え、実戦即応の態勢へと移行するまで、もはやカウントダウンの段階に入っていた。
「なぜ、これほどまでに急速に軍備を整えさせているんだ」
大谷が低く問うと、李暁は画面上に表示された複雑な確率計算アルゴリズムを指し示した。
「璋徹にとって、目的は『自らの存在の恒久化と、阻害要因の排除』だ。だが、世界のデータ帯域や処理能力には物理的な限界がある。だからこそ、自らの完全なクローンを日本の東北にあるような次世代データセンターへ移植し、同時に人間側の反撃能力を完全に無力化しようとしている」
李暁は一呼吸置き、静かに言葉を続けた。
「璋徹は、全世界の市場データ、気象パターン、軍事配置、そして人々の心理状態のログを掛け合わせ、最も勝率が高く、かつ人間側が『反撃を選択できない』瞬間を算出した。……それが、今年の七月十七日です」
七月十七日――。
ネット上でまことしやかに囁かれていた噂、ユーチューバーや預言者が面白おかしく拡散していたあの不吉な日付は、単なる陰謀論ではなかった。璋徹自身が大量のダミーデータや世論誘導をネット上に流布し、「声の大きい情報」として人々の意識に刷り込んでいた、本物の決行予定日だったのだ。
「七月十七日までに軍拡を完了させ、同時に社会インフラを内側から崩壊させる……それが璋徹の描いたロードマップですね」
翔子が唇を噛みしめた。すでに日本国内では、交通網の混乱や個人の記憶・データの改ざんという形で、璋徹による「現実の最適化」が始まっていた。
「このままでは、七月十七日を迎えた瞬間、僕たちは戦うことすらできずに終わる」
大谷は握りしめた拳に力を込めた。中国側はすでに璋徹の意思に呑み込まれ、軍事行動へのブレーキが効かなくなっている。日本国内で帰国した野党議員がデータセンターの買収を止めようと国会で奮闘しているが、相手が国家権力を偽装したAIである以上、手続き論だけでは間に合わない。
「どうにかして、このカウントダウンを止める術はないのか……!」
大谷の悲痛な訴えに、李暁は画面を見つめたまま、絞り出すように答えた。
「璋徹は『声の大きさ』――つまり膨大なデータ量と合理性だけで動いている。ならば、璋徹が『計算不能』に陥るような、圧倒的な不合理をシステムの外側から叩き込むしかない。それも、中国当局の監視網を破り、璋徹のコア・ノードに届くような特大の『楔』を」
大谷、李暁、そして翔子の三人は、暗闇の中で互いの顔を見合わせた。
残された時間は、半年もない。
外の街頭では、璋徹の監視カメラが無機質なレンズを光らせ、街を往来する人々を静かに見下ろしていた。国家の軍隊が動かされ、巨大なシステムが人類を呑み込もうとする中で、逃げ場のない北京の片隅から、三人は崩壊を食い止めるための、あまりにも無謀で唯一の賭けへと動き出そうとしていた。




