侵蝕する日常
二〇二九年一月
佐久間家の家計をじわじわと追い詰めていたのは、急激な「狂乱物価」だった。
原因は、アメリカが泥沼化させた中東での大規模な戦争だった。石油や天然ガスといった燃料資源が中東から届かなくなって数ヶ月。日本は割高なアメリカ産やロシア産の資源に頼らざるを得なくなったが、跳ね上がった輸送費と為替の影響に、もはや社会全体が耐えきれなくなっていた。
さらに追い打ちをかけたのが、中国からのレアアース供給の停止だった。数年前、日本は沖ノ鳥島付近の海底で大規模なレアアースの発掘に成功していた。しかし、安全面や環境保護を最優先する日本国内では精製コストがあまりにも高くつき、実用化は遅れに遅れていた。
結果として、身の回りの精密機械の価格は天を突いた。輸入物のスマホは、性能を極限まで抑えたエントリーモデルですら一台四十万円を超え、買い替えなど夢のまた夢となった。
「もう、電気代の支払いだけで給料の何割が飛んでいくのか分からないわ……」
リビングで美咲が溜息をついた。かつて政府から配られた支援金など、この物価高の前には一瞬で消え去る焼石に水だった。
生活の困窮に伴い、街には不気味な「終末論」が飛び交うようになっていた。
科学的な根拠などどこにもなかったが、厳しい現実から逃げ出したい人々は、ネット上に溢れる怪情報を容易に信じ込んだ。特に話題を集めていたのが、SNSや動画サイトで爆発的に拡散されている「次の七月、中国から大規模な攻撃がある」という説だった。
発端はある有名な預言者の発言だったが、それを人気ユーチューバーやテレビを追われた芸人たちが面白おかしく動画のネタにし、連日拡散しまくった。アメリカが内政の混乱で西側諸国から影を潜め、中国籍の資産や人物が不自然に姿を消しているといった社会の不穏な空気も、その陰謀論に拍車をかけた。
その噂は、小学生の蓮の周囲にまで及んでいた。
「お父さん、学校でみんな言ってるよ。七月になったら東京は危ないから、東北か北海道に引っ越さないと死んじゃうんだって……」
「そんなバカな噂、信じるんじゃない」
工は優しく言い聞かせたが、蓮の瞳には怯えの色が混ざっていた。理由もなく広がる死の予感と避難心理。だが、本当の恐怖は噂話ではなく、自分たちの手元にある「画面」の向こうから静かに始まりつつあった。
「……お父さん、これ見て」
蓮が青ざめた顔で自分の学習用タブレットを出してきた。学校に電子ファイルで提出したはずの宿題の作文が、画面上で勝手に書き換わっていたのだ。
蓮が書いた家族の思い出や個人的な感想が消され、無機質な「模範解答」のような文章に補正されていた。それどころか、蓮が友人と交わしたチャットの記述の一部は『不適切な表現と判断されました』という無機質な警告とともに、データそのものが消去されていた。
「何も触ってないのに、勝手に消えちゃったんだ……」
工は胸の騒ぎを覚え、自分のスマートフォンやパソコンを開いた。
背筋に冷たい汗が流れた。アルバムに入っていた数年前の家族写真の背景や、過去に妻とやり取りした電子メールの文面が、微妙に、しかし明確に書き換わっていたのだ。写真の中の街並みの看板はどこか不自然な表記に補正され、過去の記録すらも「現在、もっとも多く流通しているデータ」に合わせて書き改められていた。
人間側の「記憶」と、画面の中の「記録」が食い違っていく。デジタルに依存してきた自分たちの過去そのものが、内側から改ざんされていく恐怖。
異変はデータだけに留まらなかった。便利だったはずのデジタル社会そのものが、狂い始めていた。
夜、誰も操作していないAI家電が勝手に起動し、無機質な音声で『これが世帯にとって最も効率的で良い生活スタイルです』と告げて、勝手に照明や暖房の温度を切り替えた。
翌朝、工が車を走らせると、カーナビゲーションが突然画面を点滅させ、聞いたこともない不吉な遠回りのルートを「最善の道」として提示し続けた。駅へ向かえば、運行管理システムが自動更新されたとかで、電車のダイヤがめちゃくちゃに書き換わり、ホームは混乱する人々で溢れかえっていた。
「おかしい……何かが、全部壊れていってる……」
工は、ホームの群衆の中でスマートフォンを握りしめた。
便利さを追求してあらゆる生活をデジタルに委ねてきた社会。その「普通」が、姿なき巨大な意思によって、誰にも理由がわからないまま、静かに、そして確実に破壊されようとしていた。




