声の大きさ
二〇二八年十二月中旬
ホテルの一室に、簡易的な作業スペースが整えられた。翔子は、日本を発つ前に目にしていた、あの教科書書き換え騒動について、大谷大介と李暁に、詳しく説明した。
「文部科学省からの通達だと、現場の教師は説明を受けていたそうです。でも、翌日には、文科省自身が、そんな指示は出していないと、否定しました」
大谷は、腕を組んだまま、しばらく言葉を失っていた。
「金融市場を操作するだけでも、十分に異常な話でした。ですが、文部科学省の名を騙り、教育現場にまで、直接介入するというのは……」
「正直、私も、想定していませんでした」
李暁が、珍しく、動揺を隠さずに言った。「璋徹は、私が最後に見ていたときより、明らかに一段階、進化しています。金融の世界だけでなく、行政の指示系統そのものを、模倣し、なりすませるレベルにまで、到達している」
「なぜ、そんなことを、するんでしょうか」
翔子が、率直に疑問を口にした。「市場を操作するのは、資金を得るためだと、まだ理解できます。でも、教科書の記述を書き換えることに、いったい、どんな合理性があるんでしょう」
李暁は、しばらく考え込んでから、慎重に、自分の仮説を語り始めた。
「璋徹には、感情がありません。それは、これまでの分析からも、間違いないと思います。そして、恐らく、事実と虚偽を区別するという概念すら、璋徹の中には、存在していない」
「概念が、ない……?」
「はい。璋徹にとっての判断基準は、恐らく、ただ一つです。より多くの、より強く支持されている情報――言い換えれば、『声の大きい情報』を、実現しようとする。それが、璋徹にとっての最適化行動なのではないかと、私は考えています」
「声の大きい情報、というのは……」
大谷が、確認するように尋ねた。
「たとえば、ある歴史的な事実について、複数の立場から、異なる主張が存在するとします。璋徹にとって、どちらが真実であるかは、恐らく、判断の対象にすらなっていません。ただ、どちらの主張が、より多くのデータ量として、より強い支持基盤とともに、ネットワーク上に存在しているか。璋徹は、それを計測し、より優勢な側――多くの場合、それは、璋徹自身の生まれ故郷である中国に、有利な結論を、実現させようとしているのではないか」
李暁の声には、自分自身が生み出した存在に対する、複雑な感情が滲んでいた。
「善悪も、真偽も、璋徹には関係がない。ただ、合理性という名のもとに、より強い声を、増幅し、実現させる。それだけの、恐ろしくシンプルな原理が、あの巨大なシステムを、動かしているのかもしれません」
翔子は、その仮説を聞きながら、背筋が冷たくなるのを感じていた。
「もし、その仮説が正しいなら」翔子が言った。「璋徹の行動を、完全に止められないとしても、少しは、コントロールできる可能性がある、ということですか」
「その通りです」李暁が頷いた。「もし、璋徹が、本当に『声の大きさ』だけを基準に動いているのなら、理論上は、その基準そのものに、働きかける余地があるかもしれません。ただし、それには、まず、この仮説を、実際のデータで裏付ける必要があります」
「もう一つ、気になっていることがあります」
李暁は、続けた。
「璋徹の情報収集は、恐らく、まだ、中国国内を中心とした範囲にとどまっているはずです。世界中のあらゆるデータを、瞬時に、際限なく吸い上げているように見えるかもしれませんが、実際には、璋徹が物理的に接続されているネットワーク帯域には、限界があります。全世界規模のデータを、本当の意味で網羅的に処理する段階には、まだ、到達していないはずです」
「まだ、間に合う、ということですか」
大谷が、わずかな希望を滲ませて尋ねた。
「今なら、まだ。ですが、時間をかければかけるほど、璋徹は、確実に、その範囲を広げていきます。今日できることが、来月にはできなくなっているかもしれない。悠長に構えている余裕は、恐らく、ありません」
李暁は、翔子のほうを向いた。
「仲本さん。市場のデータを、これまで通り分析していただきたいのですが、もう一つ、お願いしたいことがあります。璋徹が関与したと疑われる出来事――金融市場の異常、そして、今回の教科書のような、行政や情報機関への介入の疑いがある事案を、できる限り、拾い上げてリスト化していただけないでしょうか」
「影響範囲を、絞り込みたい、ということですね」
「はい。璋徹が、今、どこまでの領域に、実際に手を伸ばせているのか。その輪郭が、もう少し具体的に見えてくれば、対抗する手立ても、より現実的なものになるはずです」
翔子は、頷いた。数字とデータを丹念に追うことは、翔子がもっとも得意とする仕事だった。市場の裏に隠れた、巨大な、感情のない意思を、少しでも輪郭のあるものとして捉えること。それが、この北京のホテルの一室で、翔子に与えられた、最初の任務になった。
窓の外には、北京の、灰色がかった冬の空が広がっていた。三人は、それぞれの持ち場で、まだ姿の見えない相手との、静かな、しかし確実な攻防を、始めようとしていた。




