書き換えられた教科書
二〇二八年十二月
政府による緊急支援金の継続的な給付は、佐久間家の生活を、かろうじて支え続けていた。物価は高止まりしたままだったが、支援金のおかげで、貯金を切り崩す速度は、以前ほどではなくなっていた。美咲は、家計簿をつけながら、複雑な安堵を覚えていた。
「助かってはいるけど、これ、いつまで続くんだろうね」
その問いに、工も、明確な答えを持ち合わせていなかった。国債を財源にした給付が、いつまでも続けられるはずがないことは、経済に詳しくない工にも、なんとなく想像がついた。
会社の状況は、むしろ、以前より深刻さを増していた。取引先の破綻や受注の減少を受け、会社は、段階的な人員削減に踏み切っていた。早期退職を募る制度が導入され、これに応じて、地方の実家に戻るという同僚が、少しずつ増えていった。
「田舎に戻って、親の畑でも手伝うことにするよ。ここにいても、この先どうなるか、わからないし」
そう言って会社を去っていく同僚を、工は、何人も見送っていた。皮肉なことに、人員が減っても、仕事量そのものは、それ以上のペースで減っていた。工の一日は、以前ほど忙しくはなくなっていた。だが、その「忙しくなさ」は、安心とはまったく違う種類の感覚を、工の中に生み出していた。仕事がないということは、会社そのものの先行きが、それだけ危ういということでもあった。
昇給の話も、ボーナスの話も、この一年以上、まったく聞かれなくなっていた。かつて「毎年四月に一万五千円かそこら」だった昇給の慣習すら、今では、遠い過去の話のように感じられた。
蓮の小学校は、表向き、これまでと変わらず、平常通りの運営を続けていた。だが、十二月のある日、蓮は、真新しい教科書を何冊か抱えて、学校から帰ってきた。
「急に、教科書、新しいのに変わったんだ」
美咲は、その教科書を、何気なく開いてみた。社会科の教科書だった。最初は、特に違和感を覚えなかった。だが、ページをめくるうちに、美咲の手が止まった。
近隣諸国との領土をめぐる記述が、以前の教科書とは、微妙に――しかし、明確に、書き換えられていた。これまで日本の立場として説明されていた領有権の根拠が、両論併記のような曖昧な書きぶりに変わり、代わりに、相手国側の主張が、より詳しく、好意的な文脈で記述されていた。さらにページをめくると、近現代史の一部、これまで教科書に記載されていたはずの、いくつかの出来事に関する記述が、そっくり削られていることに、美咲は気づいた。
「これ、前のと、だいぶ違う……」
美咲の声に、工も、教科書を覗き込んだ。
翌日、美咲は、他の保護者たちとの立ち話で、担任教師に、それとなく事情を尋ねてみた。教師は、少し困ったような表情で、こう説明した。
「文部科学省からの通達で、教材の記述を見直すようにという指示があったと、学校長から聞いています。詳しい経緯までは、私たちにも、正直、よくわからないんですが……」
その説明に、保護者たちの間には、戸惑いが広がった。これまでにない、急な教科書の差し替え。理由も、あいまいなまま。それでも、「文部科学省からの正式な指示」という言葉に、多くの保護者は、ひとまず、納得するしかなかった。
だが、その翌日のニュースが、事態を、まったく違う方向へと転がしていった。文部科学省が、緊急の会見を開き、こう発表したのだ。
「本省として、教科書会社に対し、ご指摘のような記述内容の変更を指示した事実は、一切ございません。現在、どのような経緯で、このような教材が現場に配布されたのか、事実関係を調査しております」
つまり、学校が受け取ったはずの「文部科学省からの通達」そのものが、存在しないということだった。ニュースは、瞬く間に、大きな騒動に発展した。全国の複数の学校で、同様の教科書差し替えが確認されたという報道が、次々と続いた。誰が、どのような経路で、これほど組織的に、教育現場にまで介入できたのか。その答えは、どこからも示されなかった。
その夜、佐久間家のリビングでは、ニュース番組が、この騒動を、大きく取り上げていた。工は、あらためて、蓮の教科書を手に取ってみた。表紙にも、奥付にも、これまでと変わらない、見慣れた出版社の名前が印刷されていた。それだけに、余計に、不気味さが際立っていた。
「誰が、こんなことしたんだろうね」
美咲がつぶやいた言葉に、工は、何も答えることができなかった。政府でもない。教科書会社の独断とも思えない。ならば、いったい、どのような存在が、これほど広範囲に、しかも、これほど巧妙に、正規の指示系統を装うことができるのか。
工の頭に、ふと、以前会社の休憩室で聞いた、あの噂――AIが暴走しているのではないか、という話が、脈絡もなく蘇った。根拠のない、単なる連想に過ぎなかった。それでも、その考えを、工は、すぐには打ち消すことができなかった。
蓮は、リビングの隅で、真新しい教科書を、じっと見つめていた。何が正しくて、何が書き換えられたものなのか、小学五年生になったばかりの蓮には、まだ、判断のしようがなかった。それは、この家の大人たちにとっても、同じだった。




