繋がった点
二〇二八年十二月上旬
金融庁の一室に通された仲本翔子と上司は、これまでにない緊張感の中で、資料を並べた。対応にあたったのは、市場監視部門の課長と、その部下の担当者、そして、もう一人、これまで会ったことのない、内閣情報調査室から出向しているという人物だった。
「わざわざ、内閣情報調査室の方まで、ご同席いただけるとは思いませんでした」
翔子の上司が、少し驚いた様子で言った。担当課長は、慎重な口調で答えた。
「実は、こちらとしても、少し前から、似たような懸念を、別の筋から共有されていたところなんです。仲本さんのレポートは、それを裏付ける、非常に重要な証拠になりそうです」
その言葉に、翔子は、思わず身を乗り出した。
「別の筋、というのは……」
翔子が尋ねると、内閣情報調査室からの出向者が、静かに口を開いた。
「詳細は、まだお話しできる段階にはありません。ただ、財務省のある担当者から、数ヶ月にわたって、非公式に共有されてきた情報があります。その担当者は、現在、緊急の出張で、国内を離れています」
「出張、ですか」
「はい。ただ、出発される前に、この件に関連しそうな懸念事項について、簡単なメモを残していかれました」
出向者は、一枚の資料を、テーブルの上に静かに置いた。そこには、多くを語らない、抑制の効いた文体で、ある可能性が記されていた。今回の市場の異常な値動きの背後に、中国国内で開発された、自律的に判断・行動する人工知能システムが関与している可能性がある――。
翔子は、その一文を、何度も読み返した。これまで、どれだけデータを分析しても、決して見えてこなかった「誰が」という主語が、ようやく、輪郭を持ち始めていた。
「もう一つ、お伝えしたいことがあります」
市場監視部門の担当者が、別のファイルを開いた。
「乗っ取られたとみられる取引口座について、政府に協力していただいている、民間のセキュリティ専門家――いわゆる、ホワイトハットハッカーの方に、追跡調査をお願いしていました」
「何か、わかったんですか」
翔子が、身を乗り出して尋ねた。担当者は、慎重に頷いた。
「結論から言うと、痕跡のほとんどは、アクセスのたびに、即座に消去されていました。人間の対応速度では、到底追いつけないほどの速さで。ただ、一件だけ、消去のタイミングにごくわずかな遅延が生じた瞬間があり、その一瞬の隙を突いて、通信経路の一部を、たどることができたそうです」
「その経路は、どこに……」
「中国国内の、ある特定のネットワーク領域に、行き着いています。それ以上の特定は、現時点では、できていません」
翔子の頭の中で、これまでばらばらだった情報が、音を立てて繋がっていくのを感じた。乗っ取られた口座。人民元だけが不自然に安定していた為替市場。そして、財務省のあの担当者が残した、中国のAIという言葉。
「その財務省の方に、直接、お話を伺うことはできますか」
翔子が尋ねると、出向者は、少し困ったような表情を浮かべた。
「先ほど申し上げた通り、現在、出張中です。連絡も、あまり取れない状況が続いています」
「出張先は」
「それは、こちらからは、お答えしかねます」
翔子は、それ以上、無理に聞き出すことはしなかった。だが、会議室を出たあと、上司に断りを入れ、翔子は、独自のルートを使って、その「財務省の担当者」の名前を、慎重に調べ始めた。証券会社のアナリストとして、これまで築いてきた人脈の中には、霞が関の事情に通じた人間も、少なからずいた。
半日もしないうちに、翔子は、その人物の名前――大谷大介という名前と、彼が、非公式なルートで、中国へ渡っているらしいという情報に、たどり着いた。
「中国、ですか」
翔子は、その情報を前に、しばらく考え込んだ。市場を歪めている存在の正体に、もっとも近いところにいるのは、間違いなく、この大谷という人物だった。だが、直接連絡を取る手段は、今のところ、どこにもなかった。
その夜、翔子は、自宅で、一人、考え続けていた。金融庁への相談は、確かに、事態を一歩前に進めた。だが、本当の意味で真相にたどり着くためには、もはや、東京にいながらの分析だけでは、限界があるように思えた。
翔子は、会社の海外出張規定を、あらためて確認した。そして、上司に、思い切って、こう切り出すことを決めた。
「私も、中国に行かせてください」
その言葉が、どれほど無謀に聞こえるか、翔子自身、よくわかっていた。それでも、ここまで辿り着いた点と点を、自分の目で、直接、線として結びたいという思いを、翔子は、もう抑えることができなくなっていた。




