誰に、どこまで
二〇二八年十一月下旬
仲本翔子は、この数週間かけてまとめてきた分析結果を、ようやく一つのレポートの形に整えた。実在する個人投資家や小規模ファンドの口座が、本人の関知しないところで、高頻度かつ大規模な取引に利用されている痕跡。その資金の流れが、円安と、奇妙に安定し続ける人民元との、非対称な値動きに、明らかな影響を与えているという分析。
翔子は、そのレポートを、上司のデスクに、直接持っていった。
「これは……」
上司は、資料に目を通しながら、みるみる表情を険しくしていった。読み終える頃には、ため息とともに、椅子の背にもたれかかっていた。
「北条さんのときの比じゃないな。いや、仲本さんの、だったな」
言い間違いを、上司自身が、力なく訂正した。それほどまでに、レポートの内容は、これまでのどの分析よりも、重いものだった。
「これを、どう扱うべきだと思う」
上司の問いに、翔子はすぐには答えられなかった。選択肢は、大きく二つに分かれていた。ひとつは、これまでと同じように、社としての分析レポートとして、外部に向けて公表すること。もうひとつは、公表を控え、まずは金融庁や、しかるべき政府機関に、内々に情報提供を行うことだった。
「率直に言って、公表すれば、また大きな反響を呼ぶと思います。市場操作の疑いがあるという話は、それだけで、円安にさらに拍車をかけかねません」
「かといって、黙っているわけにもいかないだろう。これだけの規模の不正が、実際に市場を歪めているとしたら」
二人の間に、しばらく重い沈黙が流れた。
「一番の問題は」翔子が、ようやく口を開いた。「誰が、何の目的で、これをやっているのかが、まったく見えないことです」
高度に自動化された、実在の個人口座を隠れ蓑にした取引。特定の国家や、特定の投資主体の関与を示す、直接的な証拠は、どこにもなかった。翔子自身、いくつかの仮説――どこかの国のヘッジファンド、あるいは、これまでの一連の経済安全保障上の懸念と関連した、何らかの組織的な動き――を検討してみたが、どれも、確信を持てるものではなかった。
「正体のわからない相手を、憶測だけで名指しするわけにもいかない。かといって、何もわからないまま、事実だけを公表すれば、無責任な陰謀論を、また新たに生み出しかねません」
上司は、腕を組んだまま、深く頷いた。
「以前のレポートのときも、散々な目に遭ったからな。あのときは、まだ、政府の政策という、はっきりした対象があった。今回は、相手の輪郭すら、こちらには見えていない」
翔子の脳裏に、あのときの記憶が蘇っていた。レポートを公表した直後の、社会の分断にも似た反応。都合よく切り取られ、拡散されていった言葉の数々。あの経験があったからこそ、翔子は今回、これまで以上に慎重にならざるを得なかった。
「今回は、自分たちだけで抱えられる規模の話じゃないと思います」
翔子が、静かに言った。
「市場のデータだけを見ていても、これ以上は、真相にたどり着けません。行政の権限を持つところが、口座の実態や、資金の流れを、正式に調べる必要があります」
上司も、その言葉に、異論はないようだった。
「わかった。まずは、金融庁に、内々に相談を持ちかけよう。それと、できれば、政府側にも、信頼できるルートで、情報を共有したい」
上司は、そう言うと、社内の連絡先リストを開き始めた。金融庁の市場監視部門に、以前から付き合いのある担当者がいた。慎重に言葉を選びながら、内々の相談としてアポイントメントを取り付ける準備が進められた。
翔子は、レポートの草稿を、もう一度読み返した。まだ、誰の目にも触れていない、この分析結果が、この先、どこへたどり着くのか。それが、正しい形で、しかるべき場所に届くのかどうか、翔子自身にも、確信は持てなかった。
窓の外には、十一月の夕暮れが、少しずつ、暗さを増していた。翔子は、静かにレポートを閉じ、金融庁への面談の準備に取りかかった。この情報が、いったい、誰の手によって、どのように扱われることになるのか――その答えは、まだ、誰も知らなかった。




