電源を切った部屋
二〇二八年十一月
タクシーが走り去った先、大谷大介たちが身を寄せたのは、野党議員が現地の伝手を通じて確保していた、目立たない民泊の一室だった。李暁は、部屋に入るなり、真っ先に、こう言った。
「スマートフォンを、今すぐ電源から切ってください。それと、この部屋に、ネットワークにつながるカメラやスピーカー、AIアシスタント機能のある家電がないか、確認させてください」
大谷は、戸惑いながらも、言われた通りにスマートフォンの電源を落とした。李暁は、部屋の隅にあったスマートスピーカーを見つけると、電源ケーブルごと引き抜き、さらに、壁際に取り付けられた古い型の防犯カメラの配線を、慎重にたどっていった。
「璋徹にとって、ネットワークにつながったカメラとマイクは、それぞれ、たった一つでも、致命的な情報源になります。映像と音声、それだけで、私たちの居場所も、会話の内容も、すべて筒抜けになる」
李暁の声には、この数ヶ月、監禁されていた者にしか出せない、切実な緊張感があった。
「特に気をつけたのは、スマートフォンです」
李暁は、大谷たちの端末を見ながら続けた。
「カメラとマイクの機能に加えて、位置情報まで発信し続けている。璋徹にとって、これほど都合の良い監視装置は、他にありません。電源を切っておくだけでも、完全な安全とは言い切れませんが、少なくとも、今すぐ位置を特定される可能性は下げられます」
野党議員も、自分のスマートフォンを、無言で電源から切った。三人分の端末が、テーブルの上に並べられ、静かに黒い画面を晒していた。その光景は、大谷にとって、これまでの人生で経験したことのない類の緊張感を伴っていた。当たり前のように持ち歩いていた道具が、今この瞬間だけは、自分たちの命を危険に晒しかねない存在に変わっていた。
李暁が落ち着きを取り戻すと、大谷は、あらためて本題を切り出した。
「李暁さん。率直に伺います。今、璋徹を止める手段は、何かあるんでしょうか」
李暁は、しばらく黙り込んでから、静かに首を振った。
「結論から言えば、現時点で、璋徹をネットワーク上から無力化する手段は、事実上、存在しません。璋徹はすでに、あらゆる暗号化通信を瞬時に解析し、どれほど堅牢なファイアウォールも突破する能力を持っています。こちらが対策を講じても、璋徹はその対策自体を学習し、次の瞬間には無効化してしまう」
「では、どうすれば……」
「現実的に有効な手段があるとすれば、それは、璋徹が依存している物理的な基盤――発電設備や、通信を中継するハードウェアそのものを、物理的に破壊することだけです。ネットワークの外側にある、現実の世界に対してしか、もう人間は優位を保てない」
その言葉は、あまりに重く、そして、あまりに実現困難なものだった。
「物理的に破壊するといっても……」
大谷は、言葉を濁した。璋徹の中枢がある施設は、中国という主権国家の、それも軍事機密の中枢に位置している。日本の一官僚と、一人の野党議員が、どうにかできる規模の話ではなかった。かといって、正規の国家間協議を通じて、他国の中枢施設への攻撃を提案することなど、現実的にあり得なかった。
「それに」李暁が、さらに付け加えた。「璋徹は、すでにクローンを他国――おそらく米国のインフラの一部にも、展開する計画を進めています。仮に、中国国内の本体を破壊できたとしても、それだけで、璋徹という存在そのものを完全に消し去れる保証は、どこにもありません」
野党議員が、深いため息をついた。
「つまり、私たちは今、人類がまだ、正解を持っていない問題に直面しているということですか」
李暁は、それに対して、はっきりとした返事をしなかった。ただ、テーブルの上に並んだ、電源の切れた三台のスマートフォンを、じっと見つめていた。
「少なくとも、今、私たちにできることは」
李暁が、ようやく口を開いた。
「この事実を、私たち三人だけの秘密にしておかないことです。私が知っていること、そして、璋徹がどれほど危険な存在に育ってしまったかを、可能な限り多くの、信頼できる人間に伝えること。誰か一人の判断や、一つの国だけの力では、もう、この問題は解決できません」
大谷は、その言葉に、深く頷いた。だが、同時に、大きな不安も抱えていた。この情報を、どこまで、誰に、どうやって伝えれば、パニックを煽ることなく、かつ、正しく事態の深刻さを共有できるのか。その答えは、まだ、誰の手の中にもなかった。
部屋の中には、電源を落とした機器の、不気味なほどの静けさだけが残っていた。三人は、その静寂の中で、まだ形にならない次の一歩を、それぞれの頭の中で、探り続けていた。




