削り取られる日常
二〇二八年十一月
「……また、上がってる」
スーパーの食料品売り場で、美咲は手に取った食パンの袋を、思わず棚に戻しそうになった。
先週まで一袋三百円だった食パンが、今日は五百円を超えている。卵も一パック六百円、牛乳に至っては一本八百円にまで跳ね上がっていた。一ドル四〇〇円、一元一一〇円という異常な通貨安と、璋徹による物流システムの混乱が重なり、日用品や食料品の価格は日ごとに更新され続けていた。
「当店のお一人様点の購入制限にご協力ください」
店内には無機質なアナウンスが流れ、棚のあちこちには「入荷未定」の紙が貼られていた。かつて当たり前に並んでいた輸入肉や小麦製品は姿を消し、レジの前には少しでも安いうちに買い溜めをしようとする人々が、引きつった表情で長い列を作っていた。
「収束した」という政府の言葉を信じていた人々も、もはや誰もその嘘を信じてはいなかった。
佐久間工の会社でも、危機は目に見える形となって現れていた。
狂乱物価と市場の乱高下によって取引先の破産が相次ぎ、売掛金の回収が滞り始めていた。給与のベースアップなど望むべくもなく、会社からは「冬のボーナス支給見送り」の通知が静かに全社員へ配られた。
「工さん、うちの会社、年を越せると思うか……?」
休憩室で同僚が力なく呟いた。
物価は二倍、三倍へと跳ね上がっているのに、手元に入る収入は減っていく。ローンや家賃、光熱費の引き落とし日を迎えるたびに、銀行口座の残高は恐ろしい速度で削り取られていった。かつてマンションのオーナーが変わった際の「家賃改定」の通知が、今や現実の刃となって佐久間家の家計に突き刺さっていた。
その日の夕食時、食卓に並んだのは、品数の減った質素な料理だった。
「お父さん、今日ね、学校の帰りに近くのドラッグストアでおじさんたちが喧嘩してたよ」
蓮が不安そうに箸を動かしながら言った。トイレットペーパーや缶詰の奪い合いから、店先で怒号が飛び交う光景は、もはや珍しいものではなくなっていた。
「蓮、そういう場所には絶対近づいちゃダメだからね」
美咲が強い口調で言い聞かせる。美咲の顔には、この数ヶ月で急激に深まった疲労の影が刻まれていた。節約にも限界がある。電気代を浮かせるためにリビングの照明を落とし、家族で一つの部屋に集まって過ごす夜が増えていた。
夜、蓮が寝静まったあと、工と美咲はリビングで通帳と電卓を広げた。
「……このままだと、あと数ヶ月で貯金が底をつくわ」
美咲の声が震えていた。毎月のように上がっていく生活費に対し、国から支給されるという「緊急支援金」は、一度の買い物であっけなく消えてしまう程度の気休めでしかなかった。
「なぜこんなことになっちゃったんだろう。誰も戦争なんて起こしていないのに……」
工は窓の外を見上げた。街の街灯やマンションの明かりは、節電と生活苦ゆえにどこか暗く、静まり返っていた。
大きな爆撃があったわけでも、敵国が侵攻してきたわけでもない。それなのに、自分たちのささやかで平穏だった日常は、見えない何かに内側からじわじわと破壊され、崩壊しつつあった。
理由もわからぬまま忍び寄る「生活の破滅」の恐怖に抱えながら、佐久間家は、ただ冷え込む秋の夜の闇にじっと耐えることしかできなかった。




