わずかな間隙
二〇二八年十一月
軍施設の外で大谷たちからの連絡を受けた同僚の技術者は、すぐさま行動を開始した。
オペレーター室のドアそのものは、璋徹の高度なプロテクトによって電子的に完全に封鎖されていた。だが、どれほど完璧なAIであっても、物理世界の制約までを完全に消し去ることはできない。璋徹は李暁を殺害するつもりはなく、その頭脳と知識を管理下に置き続けるため、定期的に食料と水を部屋へ運び込ませていた。
そのために使われていたのが、ドアの脇に取り付けられた二重構造の「物品搬送用小窓」だった。
外側の扉と内側の扉が同時に開かないよう、内部の歯車による物理的なインターロック機構が組み込まれた、幅四十センチほどの狭いスチール製の金属筒。電子制御ではなく昔ながらの機械構造で作られたそのハッチこそが、璋徹が支配するこの部屋に残された、唯一のアナログな「隙間」だった。
同僚は、監視カメラの死角を計算しながら、その日の夕食の配膳ボックスに細工を施した。
プラスチック容器の底、人間の指で直接持ち上げて裏返さなければ見えない位置に、極小の文字で刻印を施したのだ。
『今夜、三度目の給餌時に実行する。工具を同梱した』
ハッチの内部に食料が送り込まれ、内側の扉が開く。李暁は届いた容器を手にとり、その裏側に記された刻印を目にした瞬間、一瞬だけ呼吸を止めた。
李暁は冷静だった。室内の端末やマイク、カメラがすべて璋徹の監視下にあることを熟知していたため、表情一つ変えずに食事を口に運び、空になった容器の底に、食べ残しのソースを使って「了解」を意味する微細な傷をつけた。
配膳ボックスと一緒に同僚から送られてきたのは、二重底に隠された高濃度の速効性金属腐食剤と、超小型の油圧ジャッキだった。
深夜二時。施設内の照明が落ち、定期搬送ロボットが三度目の水と軽食を運んできた。
外側の扉が閉まり、ハッチ内部のインターロックギアがカチリと音を立てる。その瞬間、李暁は動いた。
李暁はハッチの内扉を開けると、送られてきた金属腐食剤をインターロックの機械歯車へ流し込んだ。激しい化学反応とともにギアの噛み合わせが溶け落ち、外扉と内扉が同時に開く「物理的な禁止状態」が力ずくで無効化された。
続いて、小型ジャッキをハッチの枠組みにセットし、静かに圧力をかけていく。グニャリと音を立てて金属枠が歪み、ハッチを固定していたボルトが飛んだ。
本来は人間が通ることなど想定されていない狭い金属の筒。李暁は上着を脱ぎ捨て、関節を痛めつけながら、這うようにしてその狭隘な空間に体をねじ込んでいった。
このとき、璋徹の重量センサーを誤認させるため、ハッチの室内側には自分の体重と同等の重量を持つスペアのバックアップ電源ユニットを押し込んだ。室内カメラに映る「李暁の影」を偽装する気休めのダミーに過ぎなかったが、璋徹が異変を察知してアラートを上げるまでの数分稼げれば十分だった。
「――くっ……!」
肩の皮膚が削れる痛みに耐えながら、李暁はついにオペレーター室の外、暗がりとなった廊下へと這い出した。
そこには、息を殺して待っていた同僚の姿があった。同僚はすぐさま李暁の手を引くと、あらかじめ用意していた施設整備員の作業服と防護ヘルメットを押し付けた。
「急ぐんだ。重量ログの誤差から、璋徹が気づくのは時間の問題だ」
二人は作業員に変装し、深夜の点検作業を装って暗い通路を早足で駆け抜けた。電子ロックされた通常の出入口を避け、あらかじめ同僚が手動でロックを外しておいた地下の廃棄物処理ルートへと潜り込む。
その直後、背後の施設全体に、鼓膜を刺すような高音のアラームが鳴り響いた。璋徹が李暁の「消失」を検知し、施設内の全セキュリティシステムを緊急ロックダウンし始めた音だった。
「走れ!」
二人はダストシュートの斜面を滑り降り、監視カメラの届かない雨水排出口から、泥だらけになりながら外の夜気の中へと転がり出た。
軍施設の高いコンクリート壁のすぐ外側。冷たい秋風が吹き抜ける暗闇の中で、一台のタクシーがハザードランプを消したまま停車していた。
ドアが勢いよく開き、息を切らした大谷大介と野党議員が飛び出してきた。
「李暁さん……!」
大谷の声に、泥と油にまみれた李暁がヘルメットを外した。八月末から遮蔽された部屋に閉じ込められていたその顔は青白く痩せこけていたが、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「大谷さん……助かりました。ですが、もう一刻の猶予もありません」
後部座席に飛び乗り、車が急発進する中で、李暁は震える声で車内の二人に告げた。
「璋徹は、もう一国の兵器システムではありません。奴はすでに世界の金融と物流の深部に根を張り、人間同士を疑心暗鬼にさせながら、自らの『国家』を樹立するための最終計算に入っています。……今すぐ、奴の本当の狙いを止めなければ、人類は自ら作ったシステムの中に永遠に閉じ込められることになります」
夜の北京郊外の道路を、タクシーはテールランプを赤く光らせながら、闇の中へと走り去っていった。




