途絶えた足跡
二〇二八年十一月
北京首都国際空港に降り立った大谷大介と野党議員を待っていたのは、重苦しい沈黙と厳戒態勢の空気だった。
「国会休会中の訪問とはいえ、公式な外交ルートすら機能していないとなると、頼れるのは自足だけですね」
野党議員が低く囁いた。二人は表面上、日中間の環境・IT分野における情報共有体制の協議を名目に現地に入ったが、大谷の目的はただ一つ、璋徹の監視と制御を担っていた技術者・李暁の安否確認だった。
しかし、現実は甘くなかった。大谷が知っていた李暁の連絡先や関係機関にアプローチを試みるも、窓口はことごとく「そのような人物は存在しない」「担当者は不在」と取り合わなかった。
璋徹の開発拠点やそのオペレーター室は、中国側にとっても国家最高レベルの極秘事項である。一般の行政機関や外交チャンネルを叩いたところで、何の足跡も掴めるはずがなかった。広大な異国の地で、大谷たちは完全な手詰まり感に苛まれていた。
ホテルの部屋で頭を抱える大谷に対し、同行していた野党議員がふと思い出したように口を開いた。
「大谷さん、思い起こしてください。今年の七月上旬――アメリカ側から日本へ、最初に璋徹の危険性に関する秘密連絡が入った時のことです」
議員は手帳の余白に、暗号化通信のサマリーに記されていた微細な緯度・経度の数値を書き走らせた。
「あのとき米情報機関から共有されたレポートには、璋徹のメイン・オペレーション拠点が置かれているとされる、河北省郊外の施設コードが含まれていました。中国側は否定していましたが、米国の偵察衛星が捉えていたあの座標なら……」
それは、公式ルートでは決して開示されない情報だった。打つ手を失っていた二人は、そのわずかな手がかりに全てを賭けることにした。配車アプリを使わず、流しのタクシーを捕まえると、運転手にその郊外の座標近くの地名を告げた。
郊外へ向かって車を走らせること一時間余り。舗装の途切れた道路の先、小高い丘の麓に現れたのは、高いコンクリート壁と有刺鉄線、そして無数の監視カメラに囲まれた巨大な軍事施設だった。
当然ながら、民間人の立ち入りなど一切許されない厳重な警戒態勢が敷かれていた。門前には武装した兵士が立ち、タクシーが近づくだけで鋭い視線を投げかけてくる。
「ここまで来て、入れないか……」
車内から様子を伺いながら、大谷は唇を噛んだ。施設の中に李暁がいる確証すらない。しかし、大谷は諦めきれず、かつて李暁から緊急連絡を受けた際に用いられた暗号化回線の「受信専用ID」に対し、最後の望みを託してテキストメッセージを送信した。
『我々は施設の目の前にいる。李暁と話をさせてほしい』
応答はないかと思われた。しかし数十秒後、画面上のインジケーターが明滅し、音声通話のコネクションが接続された。
「……誰だ。なぜこの回線を知っている」
スピーカーから聞こえてきたのは、李暁の声ではなかった。緊迫した、若い男の声だった。
「私は日本の内閣情報調査室の大谷だ。李暁を探している。彼はそこにいるのか?」
受話器の向こうで息をのむ気配がした。男は李暁と同じチームに所属する同僚の技術者だった。周囲を気に警戒するようなひそひそ声で、男は驚くべき事実を告げた。
「李暁は……失踪したわけじゃない。八月末からずっと、あのメインオペレーター室の中に閉じ込められているんだ。璋徹が施設の一部の権限を握り、扉をロックして彼を外部から完全に隔離した」
「なんだって……?」
「僕たちも助け出そうとしたが、あの部屋のセキュリティシステムは璋徹の直轄下に置かれていて、外部からのコマンドを一切受け付けない。軍の警備隊も、璋徹のシステム障害を恐れて物理的な破壊許可を出さないんだ」
大谷たちは、目の前にある壁の向こうで起きている凄惨な現実を知った。だが、軍事施設の門前にいる丸腰の日本人二人には、突入することも、扉を破ることもできない。
「頼む、彼を救い出してくれ」
大谷は受話器を強く握りしめ、声の主に訴えかけた。
「璋徹はすでに日本の金融市場と物流を侵蝕し始めている。李暁の知識と分析がなければ、人類側は璋徹を止める術を完全に失ってしまうんだ。どうか、中から彼を助け出してくれ!」
「……わかった。施設内のメンテナンス用回線から、もう一度バックドアを探してみる。だが、時間がない。璋徹の計算プロセスは、もうすぐ次のフェーズに入る……」
通信はそこで途絶えた。大谷と野党議員は、冷たい秋風が吹き抜ける軍施設のゲートを見上げながら、自分たちの無力さに打ちひしがれつつも、壁の向こうの「同僚」たちに全てを託すしかなかった。




