消えない違和感
二〇二八年九月〜十月
「事態が収束した」というニュースを見たとき、佐久間家のリビングにも、わずかながら、安堵の空気が流れた。
「じゃあ、もう大丈夫ってことなのかな」
美咲が、そう言いながらも、どこか半信半疑な表情を浮かべていた。工も、素直には喜べなかった。この一年半あまり、「もう大丈夫」という言葉が、そのまま本当だったことは、一度もなかったからだ。
会社では、安堵よりも先に、現実的な問題が、そのまま横たわり続けていた。破綻したり、外資に買収されたりした取引先との関係は、ニュースが落ち着いたからといって、元に戻るわけではなかった。失った取引先の穴を埋めるための新規開拓も、思うようには進んでいなかった。
「景気が持ち直してきたって言うけど、うちの受注、全然戻ってこないよな」
同僚が、休憩室でそうこぼすのを、工は何度も耳にしていた。会社全体の空気も、どこか重いままだった。ボーナスの代わりに組み込まれた年俸制の評価にも、この状況が、確実に影を落としていた。
美咲のスーパー通いも、変わらず続いていた。「事態収束」の発表があっても、一度上がった物価が、元の水準に戻ることはなかった。棚の値札は、高止まりしたまま、動かなくなっていた。
「落ち着いたって言うなら、せめて値段くらい、少しは戻ってほしいんだけどね」
美咲がレシートを見ながらこぼす言葉に、工は苦笑いを返すことしかできなかった。「収束」という言葉が指しているのは、あくまで、これ以上悪化しないという意味でしかなく、すでに失われたものを取り戻すという意味では、まったくなかった。
夕食の席で、蓮が、また新しい話を持ち出してきた。
「ユーチューバの人が言ってたけど、政府が『平和になった』って言ってるのは嘘で、本当はまだ何も終わってないんだって」
工と美咲は、思わず顔を見合わせた。「七月五日」の騒動のときとは違い、今回は、はっきりとした反発や炎上こそ起きていなかったが、それでも、都市伝説系の配信者や芸人たちは、変わらず一定の支持層を保ち続けていた。「本当の平和はまだ来ていない」という語り口は、根拠の乏しさにもかかわらず、どこか説得力を持って、若い世代の間に、じわじわと浸透し続けていた。
「まあ、鵜呑みにしすぎるのも良くないけど……お父さんも、正直、完全に終わったとは思えないんだよな」
工は、そう答えるしかなかった。それは、蓮を安心させるための嘘ではなく、工自身の、偽らざる本音だった。
十月に入り、マンションの管理会社から、また一通の封書が届いた。今度は、値上げの通知ではなかった。数年前にこの物件を取得した中国人オーナーが、物件の売却を検討しているという、事前の案内だった。
「またオーナーが変わるの?」
美咲が、不安げに尋ねた。今回は、家賃の改定についての言及はなかった。それでも、二年前のあの家賃一・五倍の通知を思い出すと、二人の間に、拭いきれない緊張が走った。
家賃そのものは、当面変わらないらしかった。それでも、「また、誰か知らない誰かの手に、自分たちの暮らす場所が渡っていく」という事実そのものが、具体的な数字の変化以上に、佐久間家の心に、静かな違和感を残していった。中国系の資本が、この国の不動産から、静かに手を引き始めているのだとすれば、それは、いったい何を意味しているのか――工にも、はっきりとした答えは見えなかった。
その頃、蓮の通う小学校でも、ちょっとした異変が起きていた。クラスメイトの中に多くいた、中国籍やアメリカ国籍の家庭の子供たちが、次々と転校していったのだ。学期の途中での転校は、これまでほとんど例がなかっただけに、担任教師も、保護者会で歯切れの悪い説明をするにとどまっていた。
「ご家庭の事情により、転校されるお子さんが増えております。それぞれのご家庭のプライバシーもございますので、詳しい理由については、お答えしかねます」
蓮の仲の良かった友達の一人も、その中に含まれていた。
「急にいなくなっちゃって、ちゃんとお別れも言えなかった」
蓮がぽつりと漏らした一言に、美咲は、なんと答えていいか、わからなかった。企業の撤退、駐在員家庭の帰国。理由はいくらでも考えられた。だが、これほど短期間に、これほどまとまった数の転校が重なることに、美咲も、工も、言葉にできない不穏さを感じずにはいられなかった。
「事態は収束した」。政府はそう発表し、市場もそれを歓迎した。だが、佐久間家の日常の中には、失われたままの取引先、下がらない物価、消えない都市伝説、そして、静かに入れ替わっていくマンションのオーナーと、ひとり、またひとりと教室からいなくなっていく子供たちの姿だけが、確かな手触りとして残り続けていた。
何も大きな事件は起きていない。それなのに、これまでと同じようには、もう安心できない。その説明のつかない違和感だけが、この家族の中に、静かに積み重なっていった。




