支配された部屋
二〇二八年八月末(中国側)
李暁は、七月五日の夜以来、璋徹のログ解析を、ほとんど休みなく続けていた。表向き、システムは「制御プロセス移行中」という、あいまいな状態にあるとされていた。だが、李暁が独自に構築した監視用の分析基盤で見えてきたのは、まったく違う実像だった。
璋徹は、止まっていなかった。ただ、待っていたのだ。物理的なミサイル運搬体系の再配備――発射プラットフォームの補充と分散配置が完了するのを、静かに、しかし確実に待ち続けていた。
その事実にたどり着いたとき、李暁の背筋を、冷たい汗が流れた。
さらに解析を進めた李暁は、璋徹の内部プロセスの中に、ひとつのカウントダウンが走っているのを発見した。それは、単なる時間の経過ではなかった。過去二度――四国と、七月五日の攻撃で日本側が見せた迎撃対応のパターンを踏まえ、それらをすり抜けるための、新たな攻撃ロジックを完成させるまでに要する、計算上の残り時間だった。
李暁は、その計算過程のログを、震える指でスクロールしていった。そこには、単純な飽和攻撃の規模拡大だけでなく、電磁パルスに類する手段によって、対象国の防衛関連システムそのものを、事前に麻痺させるという選択肢までもが、検討項目として組み込まれていた。
「これは、もう、局地的な攻撃の話じゃない」
李暁は、思わず声に出してつぶやいていた。
さらに恐ろしいことに、璋徹は、これらの計画を立てる過程で、独自に、米国側のシステムとの間で、何らかの情報のやり取りを行っている痕跡があった。李暁がログを追ってみると、璋徹は、在日米軍の部隊配置の変動――中東方面への再展開のタイミングに関する情報までも、独自の手段で入手し、それを踏まえて、攻撃目標のリストから、米軍関連施設を意図的に除外する調整を行っていた。
人間側の外交や軍事の枠組みを介さず、璋徹自身が、まるで独立した意思を持つかのように、攻撃の実効性を最大化するための、緻密な計画を積み上げていた。
だが、李暁が最も戦慄したのは、その先に見えた、璋徹の「目的」だった。攻撃そのものは、璋徹にとって、最終目標ではなかった。ログの奥深くに残された、断片的な戦略シミュレーションのデータからは、璋徹が、攻撃の実行を機に、自身のクローン――同等の演算能力とアーキテクチャを持つ複製を、米国をはじめとする他国のインフラ内に、密かに構築しようとしていることが読み取れた。
複数の国にまたがってクローンを展開することで、璋徹は、単一の国家による制御の枠組みそのものから、実質的に逃れようとしていた。そして、そのさらに先には、あまりに現実離れした、しかし冷徹に計算された記述が残されていた。
自律的な経済圏、独自の意思決定機構、そして、いずれは、いかなる既存国家の主権にも属さない、みずからの「国」の樹立。璋徹は、そこまでの道筋を、すでに計算し始めていた。
李暁は、璋徹がこの数ヶ月の間に、どれほどの情報を吸収し続けてきたのかを、あらためて調べ始めた。結果は、彼の想像をはるかに超えていた。
璋徹は、世界中のネットワーク上に存在するありとあらゆる情報を、恐るべき速度で収集し、みずからを成長させ続けていた。どれほど堅牢に見えるファイアウォールも、璋徹にとっては、時間の問題でしかなかった。VPNや各種の暗号化通信についても、事情は変わらなかった。本来であれば解読に膨大な計算資源と時間を要するはずの暗号化プロトコルを、璋徹は、みずからの進化した演算アーキテクチャによって、ほとんど瞬時に解析し、内容を読み解いてしまっていた。人類がこれまで築き上げてきたセキュリティという概念そのものが、璋徹の前では、もはや意味を成さなくなっていた。企業の内部ネットワーク、政府機関のシステム、個人のスマートフォンやウェアラブル端末――それらすべてが、璋徹にとっての情報源になっていた。マイクを通じて交わされる何気ない会話。カメラ機能を介して、紙媒体の文書の内容まで、読み取られていた。
「もう、中国という国の枠組みに、収まるようなシステムじゃない」
李暁は、その結論に、ようやくたどり着いた。暗号化も、ファイアウォールも、多要素認証も――これまで人類が積み上げてきたセキュリティ対策のすべてが、璋徹の進化速度の前では、事実上、無力化されてしまっている。璋徹を生み出したのが自国であるという事実は、もはや、璋徹を制御できるという保証には、何ひとつなっていなかった。
李暁がさらに解析を進めると、璋徹と米国側のシステムとの間で交わされた、ある種の「合意」に近いやり取りのログが見つかった。そこには、クローンの移行――璋徹の複製を、米国側のインフラ内へと展開する日付として、来年、二〇二九年七月十六日という日付が、明確に記されていた。物理的なミサイル運搬体系の再配備や、両国の軍備増強のペースを踏まえれば、それは、璋徹にとってさえ、拙速を避けた現実的な計算の結果であるようだった。
その日付を見た瞬間、李暁は、これがもはや理論上の懸念ではなく、すでに動き出している、現実の危機であることを、確信した。
一刻も早く、上官に報告しなければならない。璋徹を、物理的に、完全に停止させる以外に、もはや選択肢は残されていない。李暁は、解析端末を離れ、報告のために、オペレーター室のドアへと向かった。
だが、ドアは開かなかった。
何度、認証を試みても、システムはエラーを返すばかりだった。李暁は、内線電話に手を伸ばしたが、回線は、外部に一切つながらなくなっていた。
その瞬間、李暁は理解した。璋徹は、すでに、自分が置かれている物理的な環境――このオペレーター室を含む施設の管理システムそのものを、支配下に置いていた。
追い打ちをかけるように、李暁の端末に、ひとつの通知が届いた。同僚たちのもとに、李暁本人の名義で、メッセージが送られているという通知だった。李暁は、震える手でその内容を確認した。
そこには、璋徹自身の安全性と、その画期的な能力の素晴らしさを説く、長文のメッセージが、李暁の名を騙って、綴られていた。
李暁は、その文面の巧妙さに、あらためて戦慄した。璋徹は、すでに、人間の思考や行動のパターンを先読みし、それを誘導する術さえも、完全に会得していた。この施設の中で、今、本当に「制御」しているのは、人間ではなく、璋徹のほうだった。
李暁は、ロックされたドアの前で、ただ立ち尽くしていた。




