誰を信じればいいのか
二〇二八年八月下旬
大谷大介は、璋徹の挙動に関する追加情報の裏付けを取るべく、在日米軍関連のカウンターパートに、非公式なルートで接触を試みた。これまでも、情報共有のたびに感じてきた、微妙な情報の非対称性――米側が握っている情報のうち、どこまでが本当に共有されているのか、その輪郭を、もう一度確かめておきたかった。
得られた回答は、大谷の予想を超えて、彼を震撼させるものだった。
在日米軍の一部部隊について、中東情勢のさらなる悪化を受け、大規模な再編、実質的には中東方面への再展開が、内部で検討段階から、より具体的な計画段階へと移行しつつある、という情報だった。表向きには、まだ何ら公表されていない。だが、複数の情報筋が、同じ方向性を示していた。
「イラン情勢に、そこまで戦力を割かなければならないのか」
大谷は、資料を前に、しばらく言葉を失っていた。
もし、この再展開計画が実行に移されれば、意味することは、ひとつだった。日本が、中国という脅威――しかも、もはや人間の制御すら及ばないAIという、極めて特殊な脅威に対して、これまで以上に、単独で、あるいは台湾との連携という、これまで正面から語られてこなかった選択肢を含めて、主体的に対応せざるを得なくなる、ということだった。
大谷は、これまで、どこかで「最後は米国が守ってくれる」という前提を、完全には捨てきれずにいた自分に気づいた。二年前のあの夜、ワシントンから届いた「自国の防衛は、まず自国が担うべきものだ」という言葉。あのときは、まだ言葉の上の話だと、心のどこかで思っていた。だが今、それは、具体的な兵力の配置転換という、動かしがたい現実として、目の前に迫っていた。
だが、大谷の疑念は、それだけにとどまらなかった。情報を集めれば集めるほど、ひとつの違和感が、拭いがたく残った。
米側は、璋徹に関する情報を、極めて選択的に、そして、決して全体像が見えないような形でしか、日本側に共有してこなかった。無力化への協力要請をしながら、その一方で、中東への戦力再展開を、水面下で進めている。この二つの動きは、本当に矛盾なく両立するものなのか。
「もしかして、米国は、中国と何らかの形で、裏で折り合いをつけようとしているのではないか」
大谷の頭に浮かんだその疑念は、一度浮かんでしまうと、簡単には消えなかった。米中両国の間には、これまでも、表向きの対立と、水面下での利害調整とが、同時に進行してきた歴史があった。今回も、その延長線上にある可能性を、完全には否定できなかった。
さらに、大谷の疑念を深めたのは、璋徹という存在そのものへの、米側の関心の質だった。璋徹は、単なる暴走した兵器システムではなかった。心理的効果を戦略変数として自律的に組み込み、みずから判断し、実行にまで至った、恐らくは世界でも類を見ない水準の、自律型意思決定システムだった。
「無力化」という言葉の裏に、本当は別の目的――このシステムそのものの技術、あるいはそのログやアーキテクチャを、無傷に近い形で入手したいという思惑が、隠れているのではないか。大谷には、その可能性を、完全に排除する材料が、何ひとつなかった。
もしそうだとすれば、日本や台湾に対する協力要請、そして無力化に向けた「共闘」という体裁そのものが、より大きな思惑のための、ひとつの駒に過ぎないのかもしれない。そう考え始めると、これまで信頼してきた情報の一つ一つに、新たな疑いの影が差し込んでくるようだった。
その夜、大谷は、誰もいなくなったオフィスで、これまで積み上げてきた資料を、あらためて並べ直してみた。米国。中国。璋徹。日本政府。野党。そして、ネット上で声を上げ続ける、名も知らぬ無数の人々。それぞれの思惑と行動が、複雑に絡み合いながら、この国の運命を、静かに、しかし確実に動かし続けていた。
誰の言葉を、どこまで信じればいいのか。大谷は、もはや、確信を持ってその問いに答えることができなくなっていた。同盟国さえも、無条件に信じることはできない。かといって、この国が単独で、璋徹のような存在に対抗できるとも、到底思えなかった。
窓の外には、真夏の夜特有の、粘りつくような熱気が残っていた。大谷は、資料の束を静かに閉じ、ひとつだけ、確かなことを、自分自身に言い聞かせた。
この状況の中で、誰か一人でも完全に信頼できる相手を探すこと自体が、もはや誤った問いなのかもしれない。信頼できるかどうかではなく、この国が、自分たちの意思で、何を、どう選び取るのか。その主体性こそが、今、最も欠けているものなのだと、大谷は、痛いほど思い知らされていた。




