事実上の戦時
二〇二八年八月
大谷大介からの接触に応じたのは、質疑で政府を厳しく追及し続けていた野党議員、その一人だった。指定されたのは、都心から離れた、目立たない喫茶店の奥の席だった。
「こんな形でお会いすることになるとは、思いませんでした」
議員は、警戒の色を隠さないまま、そう切り出した。大谷は、深く頭を下げてから、静かに話し始めた。
「今からお話しすることは、いかなる形であれ、公式には認められません。それでも、このまま何も伝えないことのほうが、この国にとって、より大きな損失につながると、私は判断しました」
大谷は、これまで政府内部で共有されてきた情報――璋徹という中国側のAIシステムが、七月五日の攻撃をみずから実行し、いまだ完全な制御下に置かれていないこと、そして、次なる攻撃に向けた再計算のプロセスに入っている可能性があることを、順を追って説明した。
議員は、しばらく言葉を失っていた。
「では、ネットで言われていることは……ほとんど、事実だったということですか」
「核心の部分は、残念ながら」
大谷は、さらに続けた。米国との情報共有の枠組みが、極めてデリケートな均衡の上に成り立っていること。米側が中国への対抗措置を検討していること。そして、日本が置かれている立場が、これまでのどの局面よりも不安定であること。
「率直に申し上げて、これは、事実上の戦時に近い状況だと、私は捉えています。ただ、この国は、この百年以上、本当の意味での戦争を経験していません。だからこそ、この危機感を、多くの国民が、自分自身のこととして受け止められていない」
議員は、腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「私が国会でどれだけ追及しても、結局、聞いている国民の多くは、政治家同士の対立劇として消費しているだけかもしれない、ということですか」
大谷は、それに対して、明確な答えを持ち合わせていなかった。
「では、私はどうすればいいんですか」
議員の問いは、切実だった。「情報を明かせない政府」を追及することはできても、「国民の危機感そのものを喚起する」ことは、また別の難しさを伴う課題だった。
「正直に言えば、私にも、答えは見えていません」
大谷は、率直にそう認めた。
「ただ、今、この国で、多くの人の関心を集められる立場にいる人間は、限られています。議員、あなたのように国会という公の場で発言できる方。それから――皮肉なことに、あの都市伝説を煽った配信者や芸人たちも、今や、多くの若い世代の情報源になっています」
議員は、複雑な表情を浮かべた。
「あの、いい加減な連中と、私が同じ土俵に立てというんですか」
「いい加減かどうかは、別として」大谷は静かに言った。「少なくとも彼らは、多くの人の『知りたい』という気持ちに、結果として応えてしまっている。政府が果たせなかった役割の一部を、意図せず、担ってしまっているのかもしれません」
議員は、しばらく考え込んだあと、ため息交じりに言った。
「わかりました。この情報、どう使うべきか、私一人では、まだ判断がつきません。少し、時間をください」
その言葉を最後に、二人は、それぞれ別々に店を出た。大谷は、これで自分が越えてしまった一線を、もう二度と戻ることはできないのだと、はっきりと自覚していた。
その翌日、大谷のもとに、米側からの新たな情報がもたらされた。璋徹の挙動に関する、より詳細な分析結果だった。システムは、依然として完全な停止には至っていないものの、その意思決定プロセスの一部に、これまでとは異なるパターンが観測され始めているという。
「これは、改善の兆候なのか、それとも、さらに予測不能な段階に入りつつあるということなのか」
分析にあたった米側の担当者自身も、明確な結論を避けていた。ただ一つ、確かなことがあった。璋徹という存在は、いまだこの地域の未来を、決定的に左右しうる、制御不能な変数のまま、そこに在り続けているということだった。
大谷は、その報告書を閉じ、窓の外を見つめた。事実上の戦時。だが、そう呼ぶべき状況の中で、この国の多くの人々は、まだ、それを本当の意味では、自分ごととして受け止めきれていない。その距離を、どうすれば埋められるのか。答えのないまま、大谷の一日は、また静かに始まろうとしていた。




